鼬(いたち)川
鼬川の変遷‐絵図から探る‐
鼬川流路復元図
鼬川流路復元図
「越中国富山古城之図」には鼬川の西側に沿って分流する1本の河川が描かれています。絵図に河川名はありませんが、旧鼬川の流路と推定されます。南東から流れてくる鼬川は、城下町内に入ると蛇行を繰り返します。その方向は街区に沿った方向であることから、江戸時代に改修を行って流路を変更したと推測されます。

絵図に描かれた旧鼬川にも蛇行がみられ、柳町の北陸街道以北で顕著です。ここは戦国期城下町部分と推定され、このような流路変更は戦国期に行われたものと考えられます。

佐々成政は常願寺川などの河川改修に力を入れたという伝承がありますがその実態はまだよくわかっていません。旧鼬川の改修が佐々成政の手によって行われた証拠はありませんが、佐々あるいは神保氏が改修を行ったことは確実でしょう。同じ鼬川沿いに所在する戦国末の太田本郷城でも、城を迂回させる小河川の流路変更が行われています。

『天保12年富山町方旧事調理帳』に、神通川合流点に近い富山市八人町の町名の由来として、「古来からどこの河筋かは不明であるが、船頭8人がいたとの言い伝えがあり、町の東の方に小坂があってこの辺に九艘塚という塚があったと言い伝えられている」とあります。小坂とは旧河川の崖のことをさし、八人町の東側に旧鼬川が流れていたことを示しています。「万治年間富山旧市街図」にはその地に川幅の広い用水と土塁が数十mにわたって描かれており、これが旧河道と川除土手(堤防)の痕跡と考えられます。

したがって八人町には、この旧鼬川の船渡をする船頭が存在したとしてもおかしくはなく、伝承が古い事実を伝えていると考えられます。

八人町の南東には堤町があります。この町名の由来は不明ですが、堤とは土塁あるいは河川堤防をさすことばであることから、それらの施設がこの町にかつて存在したことに由来するものと思われます。「万治年間富山旧市街図」や「寛文六年御調理富山絵図」には、西堤町の一角には「堀」と書いた大きな池が2箇所表現されており、この池が八人町東側を流れていた旧鼬川の流路跡とみられます。この流路跡は、絵図に描かれた旧鼬川よりさらに西側を流れており、これは旧鼬川が改修される以前の自然の状態で流れていたときの流路と推定されます。
(古川)