山王社(日枝神社)と富山城(1)
 
「山王さん」の呼び名で市民に親しまれている日枝神社は、伝承によれば、天正9(1581)年越中国主佐々成政が富山寺から山王権現を現在地に勧請(かんじょう)して、富山の氏神としたのがはじまりとされています。
記録によれば、天正15年加賀の前田利長が社地として1900歩(6,280平方メートル)を寄進しており、この年には現在地にあったことがわかります。
正保年間(1647年頃)の『越中国富山古城之図』(金沢市立玉川図書館蔵)には、「山王屋敷」と記され、その周囲には「寺屋敷」「神明」「観音」などの区画があり、社寺が集まっていたことがわかります。それを現在の地図に合わせると、ほぼ現在の境内と同じ広さが復元されます。
しかし、寛文3(1663)年頃の『万治年間富山旧市街図』(富山県立図書館蔵)を見ると、「拝領地 山王」と記され、境内の範囲は大幅に縮小しています。西側には武家地が進出し、東側には伊勢御師三日市与三太夫の旅屋が新たに置かれています。 
(古川)
正保4(1647)年頃の山王社と現在の比較 寛文3(1663)年頃の山王社と現在の比較
正保4(1647)年頃の山王社と現在の比較   寛文3(1663)年頃の山王社と現在の比較
凡例
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