このような街道の変遷を前提に、山王社と両街道の関係に注目すると、次のことが判明します。 |
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南からくる飛騨街道は、城下町南の中野付近で東へわずかにそれていくが、それをずらさずに直線的に延ばすと、山王社に至る。 |
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稲荷町柳町境で南西に屈曲する北陸街道を、南西に延伸すると、山王社に至る。 |
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このような構造からみて、山王社の位置は、次のような視点で理解することができます。 |
飛騨街道は、南から中世富山城に向かって延び、その手前に山王社が置かれた。そしてここから北東方向に道路が延ばされ、柳町稲荷町境で北陸街道に結節した。この意味で、山王社の位置が基準となって城下町道路網が整備されたといえます。 |
これらの道路は、中世富山城を迂回させる形で展開していることから、この北側に城下町主要部が存在した可能性があります。 |
この意味で山王社は、富山の氏神として、交通の要衝、ひいては中世富山城下町全体の要の位置に存在したと言ってよいでしょう。 |
(古川)
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