山王社(日枝神社)と富山城(2)
 
佐々成政により富山の氏神とされたと伝える山王社は、なぜ現在地に置かれたのかを考えてみたいと思います。
山王社は、富山城の南にあり、北陸街道から少し離れています。一方、南から城下町に入ってくる飛騨街道(飛州街道)は、山王社の東を通過して、富山城へ向かい、北陸街道と合流します。したがって、山王社は、飛騨街道との関係が重視されているといえます。
一方北陸街道は、戦国後期以前には、呉羽山茶屋町から城北の愛宕までほぼ直線的にきて、神通川を渡河し、対岸の木町付近で上陸して稲荷町へ延び、新庄方面へ向かっていたと推定されます。その後北陸街道は、稲荷町柳町境で南西方向に折れ曲がったようです。
山王社の位置と街道復元
山王社の位置と街道復元
このような街道の変遷を前提に、山王社と両街道の関係に注目すると、次のことが判明します。
1. 南からくる飛騨街道は、城下町南の中野付近で東へわずかにそれていくが、それをずらさずに直線的に延ばすと、山王社に至る。
2. 稲荷町柳町境で南西に屈曲する北陸街道を、南西に延伸すると、山王社に至る。

このような構造からみて、山王社の位置は、次のような視点で理解することができます。
飛騨街道は、南から中世富山城に向かって延び、その手前に山王社が置かれた。そしてここから北東方向に道路が延ばされ、柳町稲荷町境で北陸街道に結節した。この意味で、山王社の位置が基準となって城下町道路網が整備されたといえます。
これらの道路は、中世富山城を迂回させる形で展開していることから、この北側に城下町主要部が存在した可能性があります。
この意味で山王社は、富山の氏神として、交通の要衝、ひいては中世富山城下町全体の要の位置に存在したと言ってよいでしょう。
(古川)