舟橋橋台工事で出土した礎石

昭和62年、松川に架かる舟橋の改修工事中、橋台部を掘削したところ大量の石垣石材が見つかり、県教委・市教委が調査を行いました。
ここは、かつて船橋が存在していたところで、明治15年に長さ229m、幅8.1mの木橋「神通橋」に架け替えられました。出土した地点は、ちょうど神通橋の橋台のあったところで、その橋台石材であろうという結果となり、近代遺構と評価されました。
出土した石材の多くは、現在の橋の右岸側橋台部に石積みとして残されています。

これらの石材を仔細に観察すると、1.規格が大きなものが多いこと、2.石材に石ノミによるハツリ加工がほとんど認められないこと、3.矢穴が認められること、の特徴がみられます。これらの石材の多くは、慶長後期の特徴を示しており、前田利長期に調達された石材といえます。

その内天端に置かれた小型石材(花崗岩)の1点には、四角いホゾ穴が空けられており、建物礎石と考えられます。現在ホゾ穴のある面が横になっていますが、この面が元来上面であり、ここに柱が立っていました。
石材は、縦60.5cm、横51.5cmの大きさで、そのうち縦36.5cm、横51.5cmの範囲が特に 平らに整形されています。その中ほどに4寸(12cm)角の四角いホゾ穴があけられており、その深さは6cmです。ホゾ穴は、石材の2辺から3寸(9cm)ずつ離れていることから、柱は1辺最大10寸(30.2cm)までの規格を復元することができます。
幕末創建の千歳御門の主柱は12.7寸(38.7cm)、脇柱は9.6寸(29.2cm)、控え柱は8.2寸(25cm)を測り、またそれぞれの礎石の大きさは、主柱20寸(60.5cm)、脇柱14寸(42.4cm)、控え柱9.5寸(28.2cm)です。このことから、舟橋の建物礎石は、千歳御門脇柱級の柱をもつ建物の礎石であることがわかります。

建物礎石は、粗加工割石であることから、その他の慶長期石材と異なり、富山藩期の可能性が高いと考えられます。明治に解体された門としては、二ノ丸二階櫓門、本丸鉄御門などがあり、前者の門礎石と伝える2個の安山岩製礎石は、現在郷土博物館横に展示されています。これ以外にも、藩主御殿など城内建物の礎石の可能性があり、なかなか同定は困難なようです。

《参考文献》
 富山県埋蔵文化財センター 1989年 『富山県埋蔵文化財センター年報 昭和63年度』

《注》

現在の公称地名・橋の名前は「舟橋」ですが、ここでは江戸時代に神通川に架けられていたものを「船橋」と呼び、用語を区別して使っていますので、ご了承ください。
(古川)
舟橋下の石垣石材
(○印が礎石位置)
建物礎石