初期高岡城下町の復元(2)

高岡城南西の松娘ヶ淵の湿地は、旧千保川流路跡で、北東―南西方向に伸びています。城の南西部から上流側は埋め立てられ、中央から城側となる南東側を武家地、北西側を町人地に区分されました。

武家地は、城の南西の高台部を中心に、城の大手虎口・搦手虎口を防御するように置かれました。

大手に当たる鍛冶丸虎口の周辺には「中鷹師町」「餌指町」「御小人」などの小字が残っています。「鷹師」「餌指」は利長の好んだ鷹狩に関係した家臣が居住したことを示しています。御小人は小者・中間などの居住地とみられます。高台の南西端は「鉄炮町」「足軽町」の地名が残され、鉄砲足軽など下級家臣の居住地でした。武家地の南東端には馬場が置かれました。 「御旅屋古図」(高岡市立中央図書館蔵)には、高台の南西端に「舛形」と呼ばれる土塁桝形虎口が設けられ、これが武家地の入口であったとみられます。武家地は段丘高台に立地するため、段丘崖が土塁の代わりとなり、また用水も周囲を走らせ、これらが土塁・堀の役割を果たしたとみられます。自然地形を利用した一種の惣構と理解できます。

千保川側に置かれた町人地は、方形・長方形街区とされ、碁盤目に街路が設けられました。現在の城下町街路の主軸は4方向が存在しますが、初期のものは1、2方向で、その後千保川の流路変化や廃城以後の拡張等により町割が変わったものとみられます。町人地内の街路は、喰違・屈曲など見通しを妨げる工夫などはされていません。
初期寺町の位置は武家地の南東側(馬場南西・瑞龍寺北側)に小規模に存在したとみられます。ここにはかつて「上梅山白岩童子」(「関野之古図」写図)が祀られていた地でした。
武家地と町人地を比較すると、武家地がやや広く設定されています。これは富山では町人地が5割以上を占め、武家地が4分の1であった状況と大きく異なります。

北陸街道は、千保川左岸から渡河し、城下町を横断して、城の大手前を横切って抜けていきます。町人地では、三番町 → 一番町 → 二番町を通り、右折して坂ノ下町に至ったとみられますが、武家地西端の「舛形」から入るルートも武家用に設けられていた可能性があります。坂ノ下町通りはもと城への資材運搬路であったと考えられます。

以上により初期高岡城下町の構造は次のように理解することができます。
  1. 武家地を大手以南に固め、周囲を惣構で囲郭した郭外町型(郭内専士型)の城下町プラン
  2. 城の大手に街道を廻す横町型町割の城下町プラン
  3. 武家地と町人地を二分割した町割の城下町プラン
この高岡城下町プランの基本構造の特徴は、富山城下町の特徴と一致します。
富山城下町との相違は、一つには、地形や方位、街道の通り方などの違いにより、居住区分の配置が異なったということであり、基本的には富山城下町建設の基本理念が継承されたといえます。一方、武家地と町人地の比率の違いが認められ、これは、高岡は武家を主体とした城下町造りであったことを示していると考えられます。

城の立地からみると、富山城では城の周囲3方が屋敷で囲まれていたのに対し、高岡城では2方に大きな空間が設けられ、町屋からは離されています。この相違は、富山城焼失が城下町(町屋)からの出火が原因だったことを受けて、防火対策を強化した結果だと考えられます。
(古川)
高岡城・富山城と城下町構造
高岡城・富山城と城下町構造

慶長期高岡城下町の復元案