高岡城の縄張は高山右近が行ったのか?

高岡城の縄張は、築城の名手であった高山右近が行ったというのが通説となっています。
近年佐伯哲也氏は、「越中高岡城の縄張りについて」で、高岡城の特徴である「重ね馬出」の縄張りは右近の思想にはないことから、右近縄張り説を否定し、利長独自が設計したと考えられると、新しい見解を提示されました。
ここでは右近の波乱に満ちた生涯のうち、金沢で過ごした約26年間における右近の動静を探ることにより、その問題を考えてみたいと思います。
次に示す年表 (別ウィンドウが開きます)から、金沢滞在期における右近の立場や行動は次の5期に分けることができます。
 
第1期 金沢来訪期(1588年から1591年) 秀吉より追放待遇。利家家臣(軍奉行・加判衆)として藩務をつかさどるが、茶も極める。利休が切腹させられ隠居を決意。
第2期 秀吉との緩和期(1592年から1598年) 肥前名護屋での謁見後、秀吉の茶会に加わるなどし、追放状態は緩和し「和解」と評されるが、復権には至っていない。宣教活動を行う一方、秀吉のキリスト教徒迫害に心を痛める。軍奉行・加判衆は継続。
第3期 家康対抗期(1599から1600) 利長を守るため藩務・軍務に没頭。軍奉行・加判衆は継続。
第4期 信仰没頭期(1601年から1611年) 教会建設・洗礼を行い、信者獲得・宣教に力を入れる。軍奉行は不明であるが、1606年・1608年の連署奉書があり、加判衆は継続していたとみられる。一応危機が去ったことを期に重要な藩務からは離れた可能性がある。
第5期 危機期(1612年から1614年) 禁止令が出され、利長からも棄教を迫られる事態。金沢を去る。
 
このような流れからみて、藩政から実質的に退き、信仰活動に没頭している第4期途中において、再び藩政に復帰するような業務、すなわち高岡城の建設(縄張)に腕を振るうという状況が生じることは考えにくいといえます。高岡城縄張を行ったという話を伝える文書は、いずれも後年の伝聞史料で、当時の史料は存在していません。その頃の右近の書簡類は、いずれも茶・信仰・生活に関するものばかりです。

高岡城の縄張は、別稿で述べたように、富山城内郭をモデルとして、防火対策を凝らした構造にバージョンアップしていますが、基本構造は富山城を受け継いだものです。富山城は、高岡城とともに秀吉の聚楽第をモデルとした「聚楽第型城郭」であり、隠居城(城郭型居館)でもあります。
富山城も高山右近が縄張を行ったという説があると増山安太郎氏は述べています。仮に富山城の縄張を右近が行ったとしても、高岡城はそれを踏襲したものであり、あえて右近が最初から縄張りする必要がなかったといえますし、もし関与が想定されるとしたら堀などの細部の工夫を凝らすなどの内容であったといえるでしょう。
いずれの城においても、右近が関わったという当時の直接的な資料は存在せず、残るのは利長自身が采配していることがうかがえる史料ばかりです。現在のところ、やはり佐伯哲也氏の指摘されたように、右近縄張説は疑念が大きいといえます。
(古川)