初期高岡城下町の復元(1)

高岡城下町は、元和元(1615)年一国一城令による廃城のため、家臣団は金沢に引揚げました。その跡地は町屋に変わるなどし、商工業の町としてその後も繁栄を続けるとともに、町の形も変容を遂げていきました。
慶長14年から19年の城下町期の構造を示す絵図は残っていません。築城に関する利長の手紙で城下町のうち木町の位置決めが最優先とされたこと、城の位置、周辺の主幹道のルートなどから推定することになります。

築城以前の主要街道は、小矢部方向から伏木へ向かう北陸街道と、これに交差する守山町―守護町―(小矢部川渡河)―土器町―古定塚―(庄川渡河)―小杉が主幹道であったと思われます。守山は二上山頂にある守山城の城下町で、そこから東の富山城へ向かうルートが復元されます。この街道上には寺崎氏の願海寺城が築かれ、戦国後期にはメインルートであったと推定されます。大門以東は江戸期には北陸街道となります。北陸街道はこの街道と守護町あるいは土器町で交差します。

高岡城はこの2本の主要街道の交差地点に置かれました。これは、富山城が北陸街道と飛騨街道の交差地点に置かれたのと同じ交通環境といえます。
高岡城が置かれた後、北陸街道は南の横山町で折れて小矢部川支流千保川を渡河し、高岡城の南の大手を横切って蓮華寺・大門を経由して後の北陸街道に合流します。したがって高岡城築城に当たって街道を城下に引込み、横切らせていることで、横町型城下町プランが意図されたことがわかります。

小矢部川右岸、守護町対岸に設けられた木町は、城下町作りの最初に設定されました。城や城下町に必要な大量の材木資材が、山からの川流や能登方面からの川舟で運ばれ、積上港となる場所で、ここを基点としてまず城までの運搬路が整備されました。高岡城南西方向に向かう直線道(N-5°-W方向)がこの道です。運搬路は千保川自然堤防の高台を斜めに横切り、突当たりには湿地(「関野之古図写図」では「松娘ヶ淵」)があります。この湿地をはさんだ対岸の丘陵部が高岡城の南西角となるので、そこから湿地を横切って高岡城大手までの道をつけました。これにより城までの最短コースが設定されたことになります。
(古川)
高岡城と主要街道
高岡城と主要街道