慶長期富山城内郭の系譜を考える(2)

富山県内において前田氏が築造改修したとみられる平城の縄張り構造をみると、天正13年秀吉が富山城の佐々成政攻め以降に変化が生じています。

佐々攻めの本陣とした呉羽山白鳥城の出城として利家は大峪城・安田城の2城を築きました。

大峪城おおがけじょうは、「越中冨山領大カケ古城図」によれば、本丸は南側の旧神通川に面して設けられた38間四方の方形プランで、本丸の北東隅と南東隅には櫓台が設けられています。東側には長方形の二の丸が付属します。二の丸の外辺には横堀が入りこみ領域を2つに分けています。これにより大峪城の内郭は、方形本丸+角馬出+虎口空間と理解され、聚楽第型に位置づけられます。

安田城やすだじょうは、「安田古城之図」や発掘調査の結果によれば、本丸は東側の井田川に面して設けられた37×44間の方形プランで、櫓台の位置は不明ですが、土塁残存部の折れからみて、北東隅に置かれた可能性があります。本丸の南に長方形状の二の丸が置かれ、その西側には第3郭である「右郭」が付属します。しかし本丸の主軸とそれ以外の郭の主軸が異なり、二の丸+右郭の2郭構造であったものが、後に方形主郭を加えて3郭構造に改修したと理解できます。

改修後は方形本丸+馬出(二の丸+右郭)という構造と理解され、変形した聚楽第型といえます。

富山城焼失後に利長が築造した高岡城も聚楽第型と評価されています。高山右近の卓越した縄張りとの評価が高いのですが、富山城の求心的構造を継承しつつも富山城の縄張を単純化したものと考えています。この視点に基づけば高岡城は主郭+馬出1(もしくは2)の単純な聚楽第型と理解されます。

前田氏による聚楽第型城郭は、天正13年築城の大峪城を端緒とし、安田城も既存の在地型城郭を改変してこれに倣ったとみられます。この段階では方形主郭+馬出1の単純形です。

その後慶長10年に富山城が主郭+馬出3となり、馬出の増強が図られています。

慶長14年の高岡城は馬出数が減りますが、これは富山城焼失に伴う急拵えという状況が反映したためとみられます。

聚楽第型城郭は、高岡城以降も三重・津城(慶長16年)、新潟・長岡城(元和元年)、山形・新庄城(寛永元年)などでも採用され、その後の近世城郭構造に大きな影響を与えたと評価されています。越中における動向をみると、比較的早く聚楽第型を取り入れた地域であったといえます。これは前田利家・利長がその先進的な特性を理解しいち早く取り入れ、越中の地でそれを確立した点で意義が高いといえます。
(古川)
聚楽第型城郭の変遷図
聚楽第型城郭の変遷図