慶長期富山城内郭の系譜を考える(3)

造瓦技術から富山城の系譜を探ってみます。

慶長期富山城の櫓に葺かれたとみられる瓦は、同時期の他地域の瓦に比べて分厚く、内面を削るという他にみられない技術が使われています。また、軒平瓦の瓦当文様は、中心飾りのない左右非対称の唐草文となっています。

全国的に共通する造瓦技術が波及した織豊期には、このような造瓦技術は認められていません。したがって、前田利長のもと、独自の造瓦技術が生成されたと考えることができます。しかしその根底にはそれ以前の何らかの技術的伝統が存在すると思われます。その一つに、平瓦の整形技法があげられます。

平瓦のうち1点には、凸面(葺いている状態では裏側になる)に、板で叩き締めた痕跡が残っていました。このタタキ痕は同心円状のものが多数重複して残っています。他の瓦ではその箇所はヘラで削る、またはヘラで磨くように整形されています。
タタキ痕
タタキ痕
  タタキ痕拓本
タタキ痕拓本

このような同心円状のタタキを行う技法は、文禄・慶長の役以後西日本を中心に広がった朝鮮半島系瓦工人による造瓦技法の一つと考えられています。東日本においては仙台城出土瓦でこのようなタタキ痕が確認されており、朝鮮半島系工人の関わりが推定されています。

利長は肥前名護屋に赴いた父利家との関連から、朝鮮半島系瓦工人を富山城築城の際造瓦に関わらせたと考えられます。しかしそこには従来の織豊期の技術系統とは異なる、上で述べたような新しい要素が加えられました。

軒平瓦に付けられた唐草文は、当時の寺院や城郭で流行した文様構成、中心飾りと、中心飾りから左右に延びる対称形の唐草文とは大きく異なっています。どちらかというと、奈良から平安時代の役所・寺院で使用された古代瓦の文様構成と類似しています。

金沢城ではいもり堀出土の鉛瓦にのみこのような唐草文が使用されています。金沢城における鉛瓦の使用は寛文5年以降とされており、利長の用いた復古調の富山城瓦を手本としてデザインされたのかもしれません。
(古川)