慶長期富山城内郭の系譜を考える(1)

前田利長が慶長10年から建設に着手した慶長期富山城は、石垣改修工事に伴う発掘調査と絵図の検討によって、その構造が明らかにされつつあります。

「越中国富山古城之図」によれば、本丸の3方を二ノ丸・西ノ丸・薪丸で囲み、北は神通川という天然の要害になっています。したがって本丸は4方向全部を防御した求心的構造といえます。

これら内郭全体の構造は、基本的に単純な方形・長方形を基調としています。西ノ丸や二ノ丸は本丸の側面を完全に防御し、また東側の薪丸は、本丸の搦手虎口を守るように配置された大型の馬出と理解されます。

城郭構造の分類は、虎口や郭の配置に着目した近世城郭分類によれば、富山城のような構造は聚楽第型に分類され、天正14(1586)年から元和5(1619)年頃に流行した型式の城といえます。

聚楽第の郭構造は、「浅野文庫蔵諸国古城之図」による縄張図よるものと、「聚楽第図屏風」等の絵画資料や発掘成果から復元したものの2説がありますが、それらによって聚楽第の構造を復元すると、長方形本丸の3方に角馬出(方形小郭)を持ち、本丸北東隅に天守、他の3隅に櫓台を設けています。この構造は富山城ときわめて近く、本丸南側虎口に聚楽第型の新しい型式の大型馬出を築き、東側搦手虎口に旧来の織豊期型の角馬出を用いたという図式を想定することができます。

利長は天正15年に京に在住し、その後利家とともに秀吉の御伽衆となり、文禄元年の聚楽第行幸に陪席するなどしています。これにより利長は聚楽第の構造や先進的な築城思想を熟知し、聚楽第が破却されて10年経った後も、それを富山城で実現したと考えられます。

聚楽第は秀吉の居住地であり、また政庁として建設された方形居館です。慶長期富山城もまた利長の隠居所として建設されたものですが、利長は実質的な領国経営の拠点として存在しました。これらは居館であっても堀・土塁・櫓など城郭様式に則った形で築造された「城郭型居館」であり、これが聚楽第と富山城の共通点といえます。

このように、秀吉が築造した聚楽第と深く関わる機会があった利長は、隠居所としての富山城を建設するにあたり、先進的な聚楽第型城郭を取り入れただけでなく、「城郭型居館」である聚楽第のあり方そのものを手本として、自身の立場をそこに重ね合わせていたとも考えられます。
 
*「城郭型居館」は筆者による造語です。
(古川)
正保図にみる慶長期富山城内郭構造<
正保図にみる慶長期富山城内郭構造
聚楽第構造A 聚楽第B
聚楽第構造A
絵図による復元
聚楽第B
図屏風・発掘による復元
富山城と聚楽第AB比較図