城下町の発掘調査
一番町地区の発掘(2013年度調査)
(1)調査成果のあらまし
 
調査地は、富山城南側の北陸街道沿いの城下町主要部に位置します。
江戸時代の絵図によると、調査地の北部は上級武家である「蠏江(かにえ)家」の屋敷、南部は町屋敷にあたり、武家屋敷と町屋敷の間は背割下水で隔てられていました。
調査ではこの背割(せわり)下水が確認され、町屋敷から江戸時代後期を中心とする井戸、ごみ穴などが見つかりました。
背割下水は、@江戸時代後期(19世紀中頃)→A幕末期(19世紀後半)→B明治から昭和初期(20世紀前半)と3回の造り替えを行っていました。@・Aの時期は壁面を石積みとし、Bの時期は底面も石敷きとしています。
このほか背割下水を横断し、武家屋敷と町屋敷をつなぐ上水施設を検出しました。竹製導水管を埋設し、武家屋敷から町屋敷側へ通水していたと推測されます。背割下水の横断部は竹製導水管を植物繊維と粘土で被覆(ひふく)した後、さらに板材をかぶせ保護していました。
 
調査地の全景
調査地の全景(手前は背割下水)
背割下水を横断する上水施設
背割下水を横断する上水施設
井戸
井戸
 
出土品は、背割下水や町屋敷を中心に、陶磁器のほか、(すずり)石臼(いしうす)煙管(きせる)(かま)(はさみ)包丁(ほうちょう)下駄(げた)漆器(しっき)(はし)羽子板(はごいた)など、町人の暮らしぶりがわかる多様な資料があります。
特に下駄はごみ穴から多く出土しました。台と歯を別木で作る差歯(さしば)下駄が多く、一体で作る一木下駄が少数あります。漆を塗った高級品も存在します。歯が大きくすり減ったものがあり、使い古した下駄をごみ穴に捨てたと考えられます
当時食べられた貝類や魚類の骨も出土しました。マダイの頭蓋骨には兜割りによる切断痕があり、兜煮や鍋などの料理に用いたようです。家畜とみられるイヌやニワトリの骨もありました。
本調査地は、(ふいご)羽口(はぐち)鉄滓(てっさい)などの鍛冶(かじ)関係の遺物が多く出土し、約100m東側で行った2005年度調査でも同様の遺物が集中して見つかっています。一番町周辺では各商家が商売に必要な道具を自給的に生産する小規模な鍛冶を行っていたと考えられます。
(野垣)