城下町の発掘調査
一番町地区の発掘(2013年度調査)
(2)背割水路の変遷
 
背割下水は、外堀の南側を東西に流れ、背合わせになった武家屋敷と町屋敷を隔てていました。絵図から推定される延長は約720mです。古くは万治(まんじ)年間(1658年から1661年)の絵図に描かれ、昭和初期まで約280年以上存続しました。
2013年度調査は背割下水の残存状態がよく、3回の造り替えを行っていることを確認しました。周辺の調査成果(2005、2008年度調査)も総合すると、少なくとも4期の変遷があります。各期の特徴は次の通りです。
T期:17から18世紀代か。素掘り。幅4m以上、深さ1.4m以上
U期:19世紀中頃まで。壁面石積み。幅1.5mから2.0m、深さ0.9m以上
V期:19世紀後半頃。壁面石積み。幅1.2m以上、深さ0.3m以上
W期:20世紀前半頃。壁面石積み、底面石敷き。幅0.8mから1.7m、深さ0.6mから0.8m
特に残りの良いU期の背割下水の標高を調べると、一方向に傾斜するのではなく、西に傾斜する地点と東に傾斜する地点を交互に造る上り下りのある構造になっていたとみられます(下図)。谷になる地点で北側の武家屋敷境に設けた溝から外堀へ排水したと推測できます。
水路の掘削にあたっては湧水層に達しないよう配慮していたと考えられます。井戸の深さから付近の湧水点はおおよそ標高6.0mから6.3mとみられますが、水路はこれを超えない深さで掘られています。土壌分析では、水路底面はやや湿っている程度で水の流れはほとんどなかったとの結果が出ており、背割下水は生活排水や雨水を流す程度で、常時水が流れる状態ではなかったようです。
背割下水の傾斜
背割下水の傾斜
絵図に描かれた背割下水をみると、中央の大手通り付近でクランクしています(下図の上段)。これは通りから水路を見たときの見通しを遮蔽(しゃへい)するためと推測されます。ところが、V期にあたる幕末期の「前田利同城囲の図」(下図の下段)では直線状に造り替えられており、遮蔽の意図がなくなったことが見てとれます。
背割下水は、水路としての機能以上に、城の外郭を取り囲む武家屋敷を町屋敷から隔てる防御性が重視されました。クランクの消失や新しくなるほど幅が狭くなる傾向は、江戸から明治へ時代が移るなかで城郭としての機能が薄れてきたことの反映とみられます。
(野垣)
越中富山御城下絵図
「越中富山御城下絵図」安政元年(1854年) 富山県立図書館蔵
 
前田利同城囲の図
「前田利同城囲の図」慶応末年頃か(1867年頃) 富山市郷土博物館蔵
絵図にみえる背割下水(上図点線部にあるクランクが下図では直線化)