城下町の発掘調査
市内電車環状線工事に伴う発掘
(2008・2009年度調査)
(2)城下町出土のイルカの骨と慶長期までの四ツ谷川
 
城下町から出土した「イルカ骨」
平和通りと太田口通りの交差点付近の地下1.5mで検出された17世紀から18世紀頃の溝跡から出土しました。
鰤街道とも呼ばれる飛騨街道の出発地点でもあります。

享保12(1727)年の口銭徴収の触書(杉本家文書)に能登や越中新川郡で取れた魚等の中に「いるか」が登場します。能登あるいは新川郡で取れた「いるか」も富山あるいは飛騨へ運ばれていたことが文献から推測されていました。「イルカ骨」の出土で、実際に鰤以外にもこの地を通って飛騨などへ運ばれていたことが裏付けられました。
出土したイルカの骨(椎骨・肋骨)(左上3点は、イノシシ・シカの骨)
出土したイルカの骨(椎骨・肋骨)
(左上3点は、イノシシ・シカの骨)
イルカの骨出土地点1
イルカの骨出土地点1
イルカの骨出土地点2
イルカの骨出土地点2
  
四ツ谷(屋)川について  
正保4(1647)年『越中国富山古城絵図』では、冷川から分流し、慶長期富山城外堀に合流するように表現されています。寛文3年から6(1663から1666)年『万治年間富山旧市街図』では、四ツ谷川は外郭防御線となり、現在の星井町付近で西方向へ流れが変えられました。この川の土手は「惣カワ土手」と記されています。四ツ谷(屋)は、富山町南の警護のため足軽四人を配置、居住させたと伝えられています。
國香正稔氏は『巡検研究』(1995年)の「富山市内の微地形調査」で、星井町から総曲輪通りの微地形から、旧四ツ谷川の流路の復元を試みています。
平成18年度調査の総曲輪フェリオ(富山大和)建設に先立つ発掘調査で、東西幅約20mの旧河道を地盤改良して、町人町を造成した地区を確認しました。
平成21年の路面電車軌道敷設工事に先立つ立会調査で、総曲輪フェリオ前の平和通りに旧河道の河岸段丘地形を確認しました。旧河道の埋土から多数の木製遺物(下駄や漆器、曲物など)が出土しました。一番町交差点中心から東に約50mの地点です。
富山藩成立後、前田利次が現在の富山城を居城とし、整備を始めた寛文期以前まで町中を流れていた四ツ谷川の旧河道跡の一部を特定することができました。城下町の変遷を知る上で貴重な成果が得られました。
(鹿島)