城下町の発掘調査
総曲輪四丁目・旅籠町地区の発掘
(2008年度調査)
   
1.調査のあらまし
調査地は、富山城下町の一部にあたります。民間開発に先立つ発掘調査で背割(せわり)下水(げすい)、溝、井戸、土坑、土台建物、ピットなどの遺構を確認しました。

2.町割りを定める背割下水
調査区の南側で、武家屋敷ぶけやしきと町屋との境に設けられた背割下水を確認しました。背割下水は東西方向の石組み溝で、近世(18世紀末から19世紀代)と近代(19世紀半ば)の2時期あることがわかりました。

調査区全景
調査区全景
(1) 近世(18世紀後半から19世紀後半)
この時期の背割下水は底面幅0.9mから1.1mで側面のみ石を積んでいます。石積みは、南側面が底面に建築部材を転用した胴木を並べ、その上に径0.3mから0.6mの玉石たまいしを用いるのに対し、北側面では径0.2mから0.4mの玉石を用いています。北側面・南側面とも石積みは水平に積み上げられています。出土遺物は、伊万里・唐津などの陶磁器がほとんどを占めており、他の遺構との新旧関係から、18世紀後半に築かれ、19世紀後半に作り替えられたと考えられます。

(2)近代(19世紀後半から20世紀代)
この時期の背割下水は上面幅1.8mから2.0m、底面幅1.5mから1.6mで、両側面とも直径0.3mから0.6mの円礫えんれき長円礫ちょうえんれきを斜め方向に互い違いに積み上げる谷積たにづみ(落積み)にし、最大5段まで残っています。底面は0.3mから0.4mの碁石状ごいしじょうの円礫を敷き詰めています。底面石は隙間が少なくなるよう、一部を打ち欠いてあり、近世とは石積みの構造が違います。
背割下水
背割下水
出土遺物は近世段階の遺物も含みますが、ほとんどが近代から現代のもので、19世紀後半に築かれ、20世紀半ばに埋め戻されたと考えられます。
以上のことから、2006年度の調査で確認された背割下水が更に西側へと続いており、絵図の内容を反映していることが明らかとなりました。また、背割下水が19世紀後半に1度作り替えられたことを確認しました。
背割下水に使用されている石材は岩質鑑定がんしつかんていによると、近世、近代とも、ヒン岩という富山県と新潟県の境で採取される石が最も多く使われていることがわかりました。
また、背割下水の堆積物の分析結果によると、常に水が流れてはおらず、しばしば乾燥するような環境であったことが推定されています。

3.武家屋敷地
背割下水の北側は、絵図によると中級から上級家臣の武家屋敷にあたります。調査では、溝、井戸、土坑、ピットを確認しました。調査区北端よりほど、遺構密度は低くなります。
このうち特筆すべき遺構には、東西方向の溝2条があります。これらの溝は、底面が平坦な箱堀はこぼりから底面がV字の薬研堀やげんぼりへと作りかえられています。遺物は中世土師器と珠洲がわずかに出土したのみで、この溝が機能していた時期は、15世紀後半から16世紀後半と考えられます。
中世溝
中世溝
藩政期の武家屋敷に伴う遺構ではありませんが、現在の富山城の下にあるといわれる中世富山城と同時期の遺構が城下町部分にも広がっていることを確認したことから、中世富山城の姿を探る重要な手がかりとなります。

4.町屋敷地まちやしきち
背割下水の南側は町屋敷地にあたり、絵図の旅籠町はたごまちに相当します。調査区の南側、現在の平和通りには北陸街道が東西に通り、調査区は街道から見て裏手にあたります。狭い調査範囲に井戸やごみ穴と思われる土坑どこうが密集しています。
特筆すべき遺構としては、土台建物の基礎があります。0.3mから0.4mの扁平な石を基礎として据え、その上にコの字状に部材をホゾ組しています。部材は樹種同定の結果、耐水性の高いアスナロと同定されています。磁器や越中瀬戸が出土したことから、18世紀後半から19世紀代と考えられます。
また、背割下水に直行する石組み溝は、絵図には描かれていない町屋敷地の境界の可能性があります。
土台建物
土台建物
今回の調査では、絵図に描かれた町割りを実証し、富山城下町における武家屋敷地と町屋での生活の様子を解明するうえで良好な資料を得ることができました。
(細辻)
調査区から富山城方向を望む
調査区から富山城方向を望む