城下町の発掘調査
市内電車環状線工事に伴う発掘
(2008・2009年度調査)
(1)二ノ丸・三ノ丸の石垣
 
.富山城三ノ丸大手門おおてもん石垣
東西方向に幅約3.2m分、高さ約2m(4段)分の石積みを確認しました。石材には、花崗岩かこうがんや安山岩の玉石たまいし割石わりいし(長さ1m前後)を用い、横方向に石をそろえる「布積ぬのづみ」が採用され、富山藩初期の石垣の積み方と共通します。
石垣の裏込めには、拳大こぶしだい栗石ぐりいしがぎっしりつまっていました。
大手門石垣の位置や規模を特定することができました。
大手門西石垣
(写真1)大手門西石垣
市民プラザ南東の大手モールで、南北方向に約6.3m分、高い所で約1m分(1から2段分)の石積みを確認しました。写真は、東石垣の南東隅にあたる角石と推測され、東側と南側に平面を取る割石が用いられています。
大手門東石垣角石
(写真2)大手門東石垣角石
 
2.富山城二ノ丸二階櫓門にかいやぐらもん石垣
県道富山高岡線大手町交差点で、長さ約1m、幅0.6m前後の石が6個、東西方向に並んでみつかりました。
二の丸の西の入り口に置かれていた「二階櫓門」と呼ばれる門の東側に積まれた石垣の基礎部分とみられ、その位置を特定できました。
石材は全て花崗岩の割石が用いられていました。
 石垣の平面図配置
石垣の平面図配置
 
3.富山城外堀の移り変わり
慶長期の外堀か A 
慶長10(1605)年以降、前田利長によって城や城下町の整備が進められました。A地点の堀は、その際に掘られた堀とみられます。
慶長期の城・城下町のようすがわかる『越中国富山古城之図』(金沢市立玉川図書館蔵)にみえる外堀と推測され、南北幅約20mを測ります。
寛文期以降は整地され、大手通りや重臣(家老)屋敷地として利用されました。
富山城・城下町 工事立会・発掘調査位置図
富山城・城下町 工事立会・発掘調査位置図
寛文期以降の外堀 B
大手門石垣がみつかった位置から総曲輪そうがわ通りにかけての南北約20mの間で水分を多く含む軟らかい土の堆積を確認しました。
富山侯家譜とやまこうかふ』(金沢市玉川図書館蔵)には、万治4(1661)年に前田利次の富山居城が決定した際、幕府から許可された項目に東西南の総構掘そうがまえぼりを広げることが含まれています。この際、寛文期以降明治期まで使用された富山城の外堀が整備されたと考えられます。
明治期の石組み水路 C
大手門石垣の南約10mの位置に、東西方向にのびる石組み水路がみつかりました。外堀が埋められた後、設置された水路です。
外堀は明治6年、明治政府により廃城令が出されて以降順次払い下げられ、土地の購入者が各々埋め立てを行い利用されました。
明治18年『富山市街見取全図』(富山市郷土博物館蔵)では、大手通りの西側は既に埋められ、明治26年『富山市街実測図』(同館 蔵)には東西方向に水路が記されています。今回みつかった水路は、明治20年代前半頃に築かれた水路とみられます。
 
4.富山城下町と近世北陸街道
背割せわり下水
『万治年間富山旧市街図』(富山県立図書館蔵、1663年から1666年頃に製作)をみると、外堀から南側には城下町が広がっており、背割下水と呼ばれる水路までが武家屋敷地、水路から南側が町屋敷地として表現されています。今回の調査では、越前町交差点から北に25mの位置に東西方向の背割下水に伴う石積み(幅1mから2m)を確認しました。
背割下水の石積み上面検出状況(南から)
背割下水の石積み上面検出状況(南から)



近世北陸街道
近世北陸街道と町人屋敷地
武家屋敷地と町屋敷地
武家屋敷地からは木組みや石組み、素掘すぼりの井戸、土坑どこう柱穴はしらあななどの遺構が多数発掘されました。
また、町屋敷地からは素掘りの井戸や柱穴などがみつかり、井戸からは江戸時代の多数の陶磁器とうじきや木製品、ネコの骨なども出土し、当時の生活の様子をうかがい知ることができます。
近世北陸街道
越前町交差点の平和通り東行き車線の地下約1.1mに、厚さ約6cmの粘土質の整地層を確認しました。南北幅は約9mを測ります。また、総曲輪フェリオ南側の平和通り東行き車線でも同様の整地層を確認しました。
近世北陸街道は、慶長期より前は城の北側を通り、前田利長が慶長期に現在の総曲輪通り付近を通る城下町に引き入れました。今回確認された整地層は、前田利次が城下町を再整備した寛文期(1661年)以降に旅籠町から一番町、西町を通った近世北陸街道に関連する遺構と推測されます。
(鹿島)