城下町の発掘調査
一番町地区の発掘調査(2006年度調査)
(9)城下町遺跡調査の意義

2006年に行った市街地再開発に伴う富山城下町遺跡の発掘調査の意義について考えてみます。

富山城下町では17世紀代、19世紀代の城・城下町絵図史料が存在し、それを比較対照することで城下町域における武家・町屋敷地の変遷過程を読み取ることができます。

今回の調査地点については、17世紀代の3種の絵図、19世紀代の2種の絵図を比較対照する従来の研究方法に加え、GIS 手法により絵図内の地割を基準とした誤差修正を行い、絵図と発掘成果を高精度に合成したことにより、絵図にあるデータとの照合が可能になった点が大きく評価できます。

富山藩政期絵図の特色としては武家屋敷に藩士名が記載してあり、これにより正確に調査地の屋敷を所有する藩士個人名を特定できたことは大きな意義があります。また、頻繁に変動する武家屋敷境において、調査で検出された屋敷境の排水溝が絵図との照合の結果天保年間と特定されたことにより、遺構の形成廃絶時期の特定、遺物の所属年代の比較が可能となったことも、まだ確立されていない富山城下町近世遺物全般の編年研究に大きく寄与したといえます。

このような成果により、これまで考古学的に明らかでなかった富山城下町における上・中級武家層の生活・信仰などの様相が次第に明らかになってきました。城下町における武家地・町人地の関係を理解する上で特に注目される成果がありました。

藩政期における富山城下町では、武家地と町人地は明確に分離されていました。特に街路の両側に屋敷が並ぶ両側町では、背面に通る背割下水を境界としている例が多く、このことは寛文絵図に見られる街路の防御的施設(街路の屈曲、木戸など)が、総曲輪の南を通っていた北陸街道周辺で特に厳重に設けられていることからも、武家地と町人地を分離する意識が強かったことがわかります。

しかし今回の発掘調査では、武家屋敷と上級商家とみられる町屋敷の間にある背割下水には、両敷地にまたがる木橋橋脚が確認されており、実質的な行き来があったことが明らかになりました。その商家は何を扱ったのか記録がありませんが、武家屋敷側のゴミ捨て穴周辺から出土した木札には、「福澤屋」という屋号と「大根」とみられる文字が記載されていました。福澤屋は江戸期から二番町に実在した青果商であり、藩士邸の日々賄う食料品納品の出入りに便利なようにと、木橋が架けられた可能性もあります。

また町屋敷地内には数箇所の小規模な小鍛冶遺構が検出されました。目的は不明ですが、商家内の一角で繰返し小鍛冶作業が行われたとすると、日常的な鋳掛や器物修繕でなく、商行為に伴う必要な道具の自給的な生産が行われたのかもしれません。上級商家においては、東に離れた職人町への外部発注ではなく、屋敷内で自給自足的に小鍛冶を行い、取引運搬保管等に必要な数々の道を生産したという実態が明らかになったことは注目されます。

今後は富山藩士の日常生活の実態の解明に向けた出土品の評価、文字資料の解読等を通して、さらに詳細な城下町研究の進展が期待されます。
(古川)