城下町の発掘
一番町地区の発掘(2006年度調査)
(6)天神信仰を示す板絵

戸田邸のゴミ穴出土の板絵は、左側面に3ヶ所の釘跡(竹釘?)があり、右側縁は割れていることから、絵札の右側には絵柄が続くとみられます。左右または周囲に額板のある、17.2cm(5寸7分)四方の板絵が復元されます。

描かれている絵柄は、梅鉢紋を染め抜いた紋幕、束帯姿の武官、吽形の狛犬で構成されています。束帯姿の武官は、纓の部分が垂れている垂纓の冠を被り、冠の左右には馬毛の緌(おいかけ)を付け、長弓を携え、3本の飾矢を入れた胡簶(ころく)を腰に着けています。衣服は、袖が両側に張り出し長い袍を着用し、袴を穿いています。

狛犬は獅子顔で、耳をだらりと下げています。頭頂には一角があり、口は左右に開いて歯を僅かに見せています。

これらの構成は、神社幕+随神+狛犬と理解されます。随神は主神を護持するもので、向って左に描かれたこの武官は矢大臣(右大臣)を表現しています。随神の右上、板絵中央には主神が描かれるはずですが、ここでは欠損しています。

主神は、紋幕に梅鉢紋を使用していることから、天神(菅原道真公)と推定されます。富山藩では初代藩主前田利次が天神町浄禅寺境内に天満宮を置いて祈願所としており、天神信仰に篤かったといわれています。

以上から、欠損している右3分の2を復元すると図のようになります。中央の天神は束帯姿で、その右下には矢大臣に対置して束帯姿の左大臣、その下には阿形の獅子姿の狛犬が復元されます。

富山においては、弘化3(1846)年以降土天神と呼ばれる土製天神人形が流行するとされます。これは主に武家・大商家などの上流階級に好まれたもので、土天神+左大臣+右大臣+狛犬+燈籠で1セットとなります。その基本構成は板絵と一致しており、天神人形のセットが板絵から土製神人形セットへと変化したことが推定されます。

このような形で天神信仰は富山において普及が始まったといえます。出土した板絵は、藩政期の上流階級における天神信仰の姿を知る資料として重要です。
(古川)
板絵復元図
板絵復元図