2006年の一番町の発掘調査では、武家屋敷地内のゴミ穴から、越前焼の擂鉢が1点出土しました。
近世期における越前焼の流通は、水や液体を入れる目的の大甕類が中心です。富山城下町の発掘調査でも50個体以上の大甕が出土していますし、大山東薬寺の宝篋印塔(1807年銘)の下に埋められた礫石経容器には2斗用の越前大甕が使われていまし た。(→トピックス「医王山東薬寺の礫石経の発掘」(1)
、(2)参照)
このように、富山県内においては大甕の流通が中心で、擂鉢はほとんど見当たりません。富山城下町の発掘調査成果によると、擂鉢は越中瀬戸や唐津が中心です。越前の擂鉢はほとんど流通しておらず、富山で発見されるのはきわめて珍しいといえます。
この擂鉢は、近世期越前編年(木村2004年)によればV−2期、18世紀末から19世紀初頭の製品です。 内面の卸し目が全く磨耗していな
いことから、未使用のまま割られたことがわかります。
この擂鉢には、通常見られない特徴が2つあります。
1.底部中央に穴が開けられていること
2.「占」の墨書文字が書かれていること、です。
底部の穴は、先の尖った棒状の道具により、底外面側から斜めに突いて開けられたものです。直径1.3cm程の丸い穴ができており、道具の太さは直径1cmほどだったと推定 されます。このとき器全体にヒビが入って割れ、大小20個の破片になりました。
これらのことから、この擂鉢は、購入された後使用することなく、まず「占」の文字が書かれ、その後器を伏し、底に穴を開けて割られた後、目的を終えてゴミ穴に廃棄された過程がわかります。割られた目的は「占」の文字が示すように、何事かを占うためで、穴を開けてどのように割れるかによって吉凶を占ったものと考えられます。
亀甲や獣骨を焼き、割れたりヒビの入り方によって占う卜占法は古くから存在していますが、江戸時代の陶器を使った卜占はあまり例がありません。
陶器を割って占うまじないが、武家屋敷においてどのような目的で行われたのか不明ですが、富山城下町には陰陽師が数多くいたとされ、彼らが行ったさまざまな吉凶占いの一種と推定されます。 |
(古川) |
|