城下町の発掘調査
一番町地区の発掘(2006年度調査)
(5)戸田式部邸のこと

2006年の発掘調査で、18世紀から19世紀の遺物が出土した背割下水北側の武家地は、天保年間(1830年から1844年)の「御城内外御焼失御絵図面」では「戸田」邸と明地、安政元(1854)年「越中富山御城下絵図」では「戸田中務」邸と明地になっています。

天保9(1838)年3月に作成された戸田豊太郎による由緒書(『富山藩士由緒書』)によれば、父戸田式部方安は、文政3(1820)年に高知組千石となり、天保3年に御小姓組頭、寺社奉行などの要職につき、天保9年正月に死去しました。同年の藩士名簿「富山藩分限帳」には戸田家の名前がなく、豊太郎が跡目を継いで高知組に任ぜられた3月より前に名簿作成が行われたようです。豊太郎がこのとき式部を名乗ったかどうかは不明ですが、安政元年「越中富山御城下絵図」では戸田中務とあり、安政2年の藩士名簿「富山御藩中分限帳」には戸田式部、高知組千石とあるので、安政2年段階では式部を名乗っていたと考えられます。

発掘調査では、戸田邸内の穴から「戸田式部」と書かれた木札が出土しており、ここが戸田邸であったことを裏づけました。木札が示す戸田式部が、方安と豊太郎のいずれをさしているかはわかりませんが、文政から安政の幕末期(19世紀)に実在した上級藩士の存在を裏付ける資料として貴重です。

絵図の比較から、戸田邸は天保年間から安政元年にかけて敷地の東側が拡張され、広さが1.2倍になります。この間加増はされていないので、なぜ拡張されたのか、その理由はわかりません。嘉永年間(1847年から1854年)には富山城本丸や大手門・櫓門などの修復が相次いで行われており、このような流れの中で、外堀周囲の武家地など主要部分の整備が行われ、戸田邸の東側への拡張・東隣境溝(排水路)の基幹化が行われたと考えられます。
(古川)
木簡(赤外撮影)
木簡(赤外撮影)