石垣の石積技術と石工

富山城の石垣の積み方は、従来「野面積」とされてきましたが、詳細に見るとそうではなく、大きく3種類があります。

第1は、濠面側に多く残る乱積による打込接(はぎ)という積み方で、未加工の割石を積むものです。
第2は、大手升形石垣の通路側にみられる布積による打込接という積み方で、割石を粗く割って方形状に整えた粗加工割石を積むものです。 大手升形の布積石垣
大手升形の布積石垣

第3は、割らない河原石をそのまま積む野面積で、搦手升南側石垣の内側に主として残っています。

第1の割石積の積み方は、金沢城の慶長期(1596年から1615年)石垣と共通しており、利長による慶長10年から12年頃の初期石垣築造の際のものとみられます。しかし大部分は崩れたりしたため積み替えられていると考えられます。この時期の特徴として、クサビを入れる「矢穴」を開けて割った面にはノミ加工を施さず、小さな刻印が付けられることがあげられます。

2mを越える大きな「鏡石」は慶長期に流行したもので、加工方法からみてもこの時期に築かれたものと考えられます。
第2の粗加工割石は、第1の割石に比べ小型で、正面には細かいノミ加工を施して平面を整えています。金沢城の寛文から元禄年間(1661年から1704年)石垣の加工と類似し、万治2(1659)年の地震による修復の際のものとみられます。大手升形の通路に面した範囲のほとんどがこの積み方になっており、かなり大規模な改修が行われたことがわかります。このとき鏡石は再び利用され、笑積など高度な石積技術を用いて復元されたと考えられます。 大手升形石垣の鏡石と笑積
大手升形石垣の鏡石と笑積

この時期までの石垣築造は、金沢城石垣などと共通した技術によって行われています。
加賀前田家では、金沢城石垣の築造・維持管理に穴生あのう家や後藤家などの石垣技術者を専門に当たらせており、利長は富山城石垣築造にあたってこのような専門集団を使用したと考えられます。

利長の家臣を記載した「慶長10年富山侍帳」には組外衆として「穴生又助」の名がみえます。俸禄の記載はありませんが60石取と推定され、中級藩士として取り立てられていたことがわかります。加賀藩における又助の系譜は不明ですが、穴生家の一員として富山城の石垣普請担当者として富山に呼び寄せられたと考えられます。また越中古文書には正保年間(1644年から1648年)初代藩主利次が芦峅布橋橋台石垣築造にあたって金沢から「石切穴生」を呼び寄せたという記録があり、富山藩成立の17世紀半ばまでは加賀藩からの派遣協力があったことがわかります。

第3の河原石積は明治以降のものとみられます。記録はありませんが、昭和29年の富山産業大博覧会の際の工事とみられます。
(古川)