富山城の割石技術
(1)石割と整形の概要
 
石垣の石材は、富山県東部の河川から調達された川石(川原石)です。この石は川の水の中を転がって運ばれてきた石で、丸いものが多く、表面はすべすべしています。これを積む場合、このままでは石どうしが接する面積が小さく、高く積むとズレて崩れやすくなるため、石垣石材として適しません。

このため、丸い石を割って平面を多くし、石と石が接する(アタリという)面積を増やし、石垣の安定度を高める工夫がなされています。また石を割ることにより、一つの石から複数の石材が調達されるという効率性もあります。

石割は河川敷内かその周辺において行われたと推定されます。梅雨や台風の時期には洪水が頻繁に起きるため、それらの時期を避けて作業されたとみられます。主だった石を獲得しても、洪水が一度起きれば再び上流から新しい石が運ばれます。その意味では川原石は無尽蔵の原石といえます。

後にみるように、川原石は一定の順序によって石割が行われました。城に運ばれてからの加工は、表面の整形あるいは石積の際の合場の調整加工程度であったとみられます。石割のための矢穴加工も、丁寧に角を作ることはせず、省略して機能性・迅速性を重視した加工方法となっています。このことから、短期間で多くの石割作業が行われた様子がうかがえます。

石の最終仕上げである整形加工は、ゲンノウを使った小割、ノミを使ったハツリや筋ノミという方法が用いられました。解体すると、細かいハツリの上から合端合わせの粗いハツリが行われている例が見受けられます。これは一度解体されたものを再び積み直す際に、再度ハツリを行って合端を合わせ直した事を示すと考えられ、改修の事実が把握できます。

石材が富山城に運ばれた経路や方法は不明だが、金沢城では石引道と呼ばれた陸路を使って県境の戸室山から多数の石材が運び出されました。その距離は約10kmで、山あり谷あり川ありの難業であったといわれています。富山では河川ということで筏や船を利用したと考えることは容易ですが、金沢穴生は陸路の運搬の経験を十分積んでいたことからみて、陸路が主体であったとみられます。
(古川)