絵図にみる石垣の変遷
本丸搦手石垣

富山城本丸の北東隅には、本丸から東出丸(慶長期は薪丸)へ続く出口(搦手虎口と呼びます)があり、そこは石垣造となっていました。富山城絵図各種における搦手虎口の姿を確認してみましょう。

慶長期富山城を示すと評価される正保期の「越中国富山古城之図」では、搦手虎口の表現は、石垣が左右にずれる「喰違虎口」となっています。石垣の長さは短く、それ以後の石垣と大きく異なっています。

次に富山藩初期の寛文期には、「万治年間富山旧市街図」にみるように、石垣が相対する「平虎口」に変化しています。石垣は慶長期より長く、北側石垣はL字形に屈曲した姿に変化します。虎口の外側にはL字形の土塁が附属し、折れ曲がって土橋を進む工夫がされています。寛文期の外枡形は堀に面する1面のみが石垣造とされますが、天明以降(18世紀後半)には外枡形の2面ともに石垣造に改修されたことが絵図から分かります。現存の石垣は、天端列を近代に改修しているものの、ほぼ天明以降の姿をとどめるとみられます。

2006年の試掘確認調査では石垣際の土橋部分を調査しました。調査の結果、4期の通路面や築造初期の土橋南端肩部を確認し、また通路幅が拡張されたことも明らかになりました。
(古川)
絵図にみる本丸搦手石垣の変遷
絵図にみる本丸搦手石垣の変遷