寛文期の石垣
本丸搦手北石垣

現在みえる富山城の石垣は、明治時代以降に積直された部分が多く、江戸時代の石積を残す石垣は一部しかありません。そのうちの一つが、佐藤記念美術館が建つ場所の東面にあることが平成20年度の調査でわかりました。本丸搦手北石垣の東面に当たります。

調査では、この面に山形に「布積」と呼ばれる積み方をした部分が残ることがわかりました(写真赤線の中)。布積とは、横方向の石の列を水平に並べる積み方です。ここでは、築石の大きさが50cmから60cmの小ぶりのものを主体としています。

布積は、城の表口に当たる大手筋の鉄門石垣にもみられます。大手筋の鉄門石垣は寛文初年頃(1661年頃)の築造と推定されています。上記の搦手石垣の布積は、大手筋のものほど整っておらず、目地の通りがやや乱れた箇所があります。こうした違いは、大手筋の布積が築石の均一度が高く、形もほぼ方形で整っているのに対し、搦手側は途中にややいびつな築石が入ることで横方向の石の列が乱れるために生じています。また、大手筋の布積が割石だけで構成されるのに対し、搦手側は玉石を混ぜていることも異なっています。こうした違いがあるにしても、明らかに布積を意識した積み方といえます。これらは大手筋の鉄門石垣と同じく寛文期に築造されたものと推測できます。城の裏側にあたる搦手側は、見栄えがあまり重視されなかったため、乱れが生じていると考えられます。

富山城で数少ない江戸時代の石積を残す部分であり、さらに富山藩初期の寛文期に遡る可能性が高いという点で、重要な意味を持つといえます。
(野垣)
本丸搦手北石垣(東面)
本丸搦手北石垣(東面)