戦国時代編1

江戸時代初めころに書かれた往来物と呼ばれる歴史書に「富山之記」があります。これは越中守護代神保長職が戦国時代に築いた富山城やその城下の姿が次のようにこと細かく述べられています。
「城の西は神通川、残る三方は二重の堀で囲まれ、深さは百尺(30m余)幅百歩(180m余)もある。築地の上には壁を塗り、外をうかがうための穴がある。敵の侵入を防ぐための乱杭や逆茂木(さかもぎ:茨の枝を逆立てて作った柵)を何重にも設けている。周囲は深い田・沼田が広がり人馬の足が立たないという。」
これらの表現には所々誇張があり、真実の姿が描かれているか疑問が多いとされるものの、ここに書かれた数々の描写から、神保氏時代の富山城の位置は、現在の富山城の南方、星井町以西にあったとされ、千石町・河端町・土居原町などの地名はその名残と考えられていました。

出典「日本城郭大系7」
星井町西側説(久保尚文氏による)
神保氏が富山城を築城した年代については諸説があり、永正16(1519)年から永禄3(1560)年頃までの間とされています。なかでも久保尚文氏が提唱された天文12(1543)年説が、当時の情勢からみて現在最も有力な説となっています。

当時、新川郡を支配していたのは魚津・松倉城を拠点とした椎名氏で、神保・椎名の勢力は神通川を境にしていました。したがって神通川を越えた東側に神保氏が拠点を築いたということは、両者の軍事勢力に変化があったことを示しています。

その後、富山城は神保氏の本拠として整備され、富山の戦国史にとって大きな役割を果たすことになりました。
(古川)