戦国時代編2

神保氏は、放生津(現新湊市)を本拠に婦負・射水郡の守護代として越中西部を支配しました。永正17(1520)年越後の長尾為景に敗れ、勢力を減退させていましたが、長職ながもとが神保氏の惣領的地位につくと、新川郡へ勢力を伸ばし、天文12(1543)年頃富山郷付近を軍事境界線として椎名氏との抗争が激化しました。久保尚文氏はこの段階で長職が富山城を築城したとされました。

しかし、永禄3(1560)年、富山城は上杉謙信勢に攻められ、長職は西の増山城(砺波市)へ逃れました。その後しばらくは上杉の支配下にありましたが、椎名氏、神保氏や一向一揆勢との攻防により、城の支配者はめまぐるしく変わります。

天正6(1578)年の上杉謙信の死後、織田信長に身を寄せていた神保長住が飛騨国から侵攻して富山城に入り、その後天正9年信長に派遣された佐々成政がここを拠点として越中平定を成し遂げました。佐々成政が城主として居城したのはわずか数年にすぎず、越前小丸山城時代に築城に腕を振るったようなことは富山城では行わなかったようです。

天正13(1585)年、成政と豊臣秀吉との不和から、秀吉がじきじきに越中攻めを行い、前田利家らを率いて城山頂上の白鳥城に布陣しました。このとき神通川左岸側にも安田城(富山市婦中町)や大峪城(富山市五福)を築き、また利家を白鳥城北側の御服山砦(富山市安養坊)に置き、右岸側に立地する富山城を取り囲むように布陣しました。

成政は戦わずして秀吉に降り、富山城を開城しました。秀吉は利長に命じて富山城を破却させ、戦略的な機能を失わせました。

その後、成政は赦されて新川郡一郡のみの支配とされ、他郡は利家に与えられ、実質的な前田支配がここに始まりました。
(古川)