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第十二号
平成10年11月19日
●収蔵品紹介 ●絵にみる佐々成政



収蔵品紹介
『土人形 天神様』
渡辺信秀 作

土人形 天神様
 学問の神様として知られる天神様は、富山ではお正月にまつられます。天神様を床の間に飾り、供え物をしてその年の安全や学問成就などを祈願します。近年では掛軸に描かれた天神様が多いようですが、明治ごろまではこのような土人形のものもまつられたようです。
 富山で天神信仰が盛んであるのは、富山藩主の前田家の祖先が菅原氏と伝えられることに関係しています。富山市の於保多神社など、天神様をまつった神社もたくさんあります。
 この土人形の天神様は渡辺信秀氏の作です。土人形は、富山10代藩主 前田利保(としやす)がつくらせたことに始まるとも、利保(としやす)に招かれた陶工 平瀬安次郎に学んだ渡辺氏の祖父が始めたともいわれます。信秀氏は祖父・父の技術を受け継ぎ、手作業によるこの土人形を作り続けています。鮮やかに彩色され、ひとつとして同じもののない作品です。

 
 土人形にはたくさんの種類があり、富山市内でも販売されています。
  • JR富山駅前 CiC(シック) 5階 富山市観光物産センター
  • 富山市民俗民芸村 土人形工房
     (地鉄バス 呉羽山老人センター行き・新桜谷行き 民俗民芸村バス停 下車)









絵にみる佐々成政

 佐々成政は天正8年〜13年(1580〜85)頃、この富山を治めていた武将です。富山にいた時期は短いのですが、富山には成政についてたくさんの足跡や伝説が残っています。
 その一部を浮世絵などとともに見ていきたいと思います。





佐々成政 (さっさなりまさ)
 尾張(おわり)<現 愛知県>に佐々盛政<成宗>の子として生まれます。織田信長(おだのぶなが)に仕え、長篠の戦い(1575)や石山本願寺攻め(1576)などに功績があったため、信長に気に入られていたようです。そして越前府中<現 福井県>のちに越中富山の領地を信長に与えられます。
 この頃 越中富山では神保(じんぼ)氏が大きな勢力を持っていましたが、越後の上杉氏に攻められ、苦戦していました。その後ろだてとして、越中富山に成政が入ることとなったのです。
 本能寺の変(1582)が起こり、織田信長がなくなります。その後を引き継いだのは豊臣秀吉でしたが、成政は秀吉に従わず、徳川家康方につきました。よって成政は秀吉に攻められることとなります。
 天正11年(1583)徳川方についていた柴田勝家が秀吉に敗れると、成政も秀吉に降参しますが、引き続き越中富山の支配は認められました。
 その後も成政は秀吉と対立する姿勢を変えていなかったようです。
 天正12年(1584)12月、成政は徳川家康と同盟を結び、また秀吉攻めを家康に勧めるため、秀吉方に気付かれないよう、雪のざら峠を越えたという伝説があります<ざら越え、さらさら越え>。命がけで雪深い峰々を越えていったにも関わらず、家康はそれを聞き入れなかったといいます。








『富山城雪解清水』

  明治時代に作られた、佐々成政の生涯を主題とした歌舞伎。竹柴其水の作。
 この役者絵(明治23年作)の一部を取り上げてみます。


富山城雪解清水 信越境更々越
  
    『富山城雪解清水 信越境更々越』 豊原国周

−絵師紹介− 豊原国周(とよはらくにちか)
 天保6年(1835)〜明治33年(1900)浮世絵師。本名 荒川八十八。はじめ豊原周信に入門し、羽子板の下絵などを描いていた。のち初代歌川国貞に入門し将来の活躍を期待される。国貞没後、役者絵で優れた才能を発揮した。



富山城雪解清水 早百合部屋の場
 
『富山城雪解清水 早百合部屋の場』 三代 歌川国貞 (香朝楼)

早百合(さゆり)姫というのは成政の愛妾で、地元富山の五福の生まれと伝わっています。

 成政はさらさら越えののち、家康に願いを聞き入れられないまま、越中富山へ帰ってきます。その成政不在の間に、愛妾の早百合姫が不義をはたらいたという家臣のざん言に、成政は逆上し早百合姫を切り殺してしまうのです。こうした早百合姫と成政にまつわる伝説などが、富山にはたくさん残されています。

 豊臣秀吉は北陸平定のために動き出しました。成政は、天正13年(1585)に越中国入りした秀吉と一戦交えることになったのですが、降伏してしまいます。この時 秀吉は「成政を降参させるのに太刀も刀もいらなかった」と豪語したといいます。


富山城雪解清水 神通川夜合戦
『富山城雪解清水 神通川夜合戦』 三代 歌川国貞 (香朝楼)

−絵師紹介− 三代 歌川国貞(うたがわくにさだ)
 嘉永元年(1848)〜大正9年(1920)浮世絵師。本名は竹内栄久。父の友人の歌川国磨の紹介で、初代歌川国貞に入門し、その没後にニ代国貞の門弟に入る。明治22年に三代国貞を襲名する。一寿斎・香朝楼などと号する。明治期の開化風俗絵が多い。





 成政は秀吉に降伏した後、越中国新川郡(にいかわぐん)のみを領地として与えられました。<越中四郡のうち、残りの婦負(ねい)郡・射水(いみず)郡・砺波(となみ)郡は前田利長が支配することとなります。>
 秀吉は全国制覇に向けて、九州を平定します。成政は天正15年(1587)領地替えとなり、肥後(ひご)<現熊本県>の領主となりました。しかしそこでの国一揆の収拾がつかず、その失政を咎(とが)められ切腹を命じられます。
領地

 成政は尼崎(兵庫県)で切腹します。
 菩提寺は尼崎にある法園寺で、成政の肖像画が保存されています。(それを模写した作品が下のものです。)
  −絵師紹介−

−古川雪嶺−
 明治32年(1899)〜昭和46年(1971)富山市内の呉服屋の息子として生まれる。
 本名は栄太郎といった。15歳頃から日本画をはじめ、東京などで人物・花鳥画などを学ぶ。その後も独自に狩野派などの絵を研究。富山県展創立以来の運営審査委員をつとめた。特に鮎
(あゆ)の絵を得意とし、たくさんの作品を残した。
        
佐々成政肖像
『佐々成政肖像』
古川雪嶺 模写

 佐々成政が富山に残した足跡・伝説などは、まだまだたくさんあります。芝居絵などからでもその一部を読み取っていただければ幸いです。

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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)