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『富山名所 県庁前通り』 |
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着物姿の老若男女が行き交う広い道。手前の袴姿の女性は女学生でしょうか。 これは明治42年に出されたもので、富山の名所を紹介したものです。美しい色刷りで、全部で12種あります。これは、その内の一枚で「県庁前通り」と題されたものです。富山城址に県庁が置かれたためについた呼称です。つまり現在の大手町通りの明治時代の様子なんです。 「大手町(おおてまち)通り」ってどこだろうと思った方のために、場所の紹介。富山城址公園から南に向かってのびる道で、市民プラザの前の道、元富山市公会堂の裏道といえばお分かりでしょうか。 さて今回は、この大手町通りにスポットを当ててみましょう。 |
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「大手町通り」は富山城の一部だったところで、明治の世になり、城が解体され、街が形成されていく過程で整備されていった道です(図1参照)。現在の市民プラザ前あたりに、富山城の正門である、大手門があったことから「大手通り」と呼ばれました。 |
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城址より大手を望む | ||
正面が市役所、手前に堀が見える ここから南へ通りが続く |
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さてこの大手通りは、富山城の本丸と二ノ丸をつなぐ土橋から三ノ丸の屋敷の間の道、そして大手門を結んでできた道です(図1参照)。そのため道幅も均一ではありませんし、真っ直ぐでもありませんでした。またもともと大手門附近は敵侵入の際に直進を防ぐため升形(ますがた)になっていましたので、その名残で道が直角になっている箇所があったのです(図2参照)。現在からでは考えられない形ですね。 |
図1 幕末の富山城 | |
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本丸と二ノ丸をつなぐ土橋と三ノ丸の屋敷の間の道、大手門を結んで道ができた |
図2 明治25年 | 図3 明治41年 |
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拡幅前 | 拡幅後 |
→の部分が直線に改修され拡幅されている |
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この直角部分は、ある時期に、ある理由によって直線に改修されるのです。さてその理由は… 富山は古来大変大火が多い所でした。明治32年8月の大火も、市街の大半約4600戸余りを焼き尽くしました。この大火を機として、大手通りの一部を拡幅したのです。これは延焼防止や消防ポンプの走行に大変役立ちました(図3参照)。この際に道幅を、車道は67尺5寸に、両側の人道(歩道)は18尺にしたとあります。1尺を30.3p、1寸を3.03pとして計算すると、車道・人道併せて約20m45pとなります。ちなみに現在の大手町通りの道幅は27mです。上でご紹介した名所図の「県庁前通り」は、この拡張工事後の様子です。絵の両端に歩道らしきものが見えますね。 |
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図4 大正2年 |
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市電の軌道が赤線で表されている |
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立ち並ぶ会社や公共施設ー富山市役所・図書館・総曲輪小学校・富山警察署・富山薬業専門学校・郵便局・病院、そして新聞社などは、すべて大手通りに面して建っていました。また、総曲輪通りと交わっており、早朝には朝市がたち、夏になれば夜店が出るという、本当に賑やかな場所だったのです。 |
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図書館 | 富山市役所 |
市役所と図書館はともに洋風の建物で向かい合って建っていました。 図書館の前には広い前庭があり、道幅を広く見せる効果がありました。 |
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昭和3年都市計画富山地方委員会から街路網計画が出されました。当時の都市計画法によると道路は、その幅によって等級にわかれていました。最高は24間以上の「広路(ひろじ)」であり、20間以上が「一等大路一類」、そして16間以上の「一等大路二類」と続き、大手通り(大手線)はこれにあたります。1間を1.818mとして計算すると16間は約29mになります。ほかの主要道路は12間以上の「一等大路三類」となっており、大手通りが富山の第一級道路であったことがわかります。この計画の過程で停車場から大手通りまで直線で結ぶ道路の構想がありました。つまり城址の遺構をすべて壊して、メインストリートと停車場を結ぶというのです。幸いにこの構想は実現しませんでしたが、大手通りが重要な道路であったことがおわかりでしょう。 |
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昭和24年 |
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富山復興都市計画図 | |
戦後の整備街路が点線で表されている |
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ホテル及び国際会議場は、平成11年に竣工しました。 |
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