富山城址の変遷 |
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あなたは、城址公園を見て、富山のお城は小さかったんだなと感じたことはありますか? |
確かに、現在の城址公園だけを見ると、小さいお城だったんだなと思いますよね。しかし、本来の富山城はもっと大きなお城でした。江戸時代の富山城は本丸・二之丸・西之丸・東出丸・千歳御殿(中之御屋敷)などから構成されていましたが、この内、城址公園として現在まで遺構が残っているのは本丸と西之丸部分だけなのです。それでは、城址公園と比べると、江戸時代の富山城はどれぐらいの大きさだったのでしょうか。 |
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※江戸時代の神通川は、富山城の北側を流れていました。明治時代以降の改修工事によって、現在の流れになったのです。松川は旧神通川の名残です。 |
上の図は現在の地図に富山城の範囲を重ねた図です。右の図は、黄緑色の部分が元の城域、濃い緑色の部分が現在の城址公園の面積を表しています。城址公園は元の城域の6分の1程度しかありません。このことから、元の富山城がかなり大きかったこと、残っている部分が全体のほんの一部であることが分かりますね。 |
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下の図は、江戸時代の富山城の構成を示したものです。元の富山城はこんなに大きかったのです。 |
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それでは、大きかったお城がどのようにして6分の1になってしまったのでしょうか。また、城址公園部分はなぜ現在まで残ったのでしょうか。そこには富山県庁の存在が大きく関わっています。さて、県庁と城址の保存にはどのような関係があるのでしょうか。 |
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