富山城址の変遷
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富山城址の変遷

あなたは、城址公園を見て、富山のお城は小さかったんだなと感じたことはありますか?

確かに、現在の城址公園だけを見ると、小さいお城だったんだなと思いますよね。しかし、本来の富山城はもっと大きなお城でした。江戸時代の富山城は本丸・二之丸・西之丸・東出丸・千歳御殿(中之御屋敷)などから構成されていましたが、この内、城址公園として現在まで遺構が残っているのは本丸と西之丸部分だけなのです。それでは、城址公園と比べると、江戸時代の富山城はどれぐらいの大きさだったのでしょうか。

城址公園を東側道路から見た風景写真
江戸時代の富山城
江戸時代の富山城図
現在の富山城址
現在の富山城址図

2つの図を重ねてみると…
江戸時代の富山城図と現在の富山城址図を重ねた図
※江戸時代の神通川は、富山城の北側を流れていました。明治時代以降の改修工事によって、現在の流れになったのです。松川は旧神通川の名残です。

上の図は現在の地図に富山城の範囲を重ねた図です。右の図は、黄緑色の部分が元の城域、濃い緑色の部分が現在の城址公園の面積を表しています。城址公園は元の城域の6分の1程度しかありません。このことから、元の富山城がかなり大きかったこと、残っている部分が全体のほんの一部であることが分かりますね。

富山城域と城址公園面積比較図

下の図は、江戸時代の富山城の構成を示したものです。元の富山城はこんなに大きかったのです。

富山城縄張り図 本丸御殿:古写真
本丸御殿

二階櫓門:古写真
二階櫓門

本丸 藩政の中心であり、藩主の住居でもあった本丸御殿がありました。城の中心にあたります。
二之丸 侍番所や、城の内外に時を告げる時鐘所がありました。入口には富山城で最も重要で、最も立派な二階櫓門が建っていました。
三之丸 藩の学校や役所、上級家臣の屋敷などが建っていました。富山城で最も大きな曲輪です。
西之丸 米などを納める土蔵が建っていました。
東出丸 あまりよく分かっていませんが、江戸時代後期には産物方役所という役所が建っていました。
千歳御殿 江戸時代後期、藩主を隠居した前田利保によって千歳御殿が建てられました。
天守閣 建てる計画はありましたが、財政的な理由などから、実際には建てられませんでした。


それでは、大きかったお城がどのようにして6分の1になってしまったのでしょうか。また、城址公園部分はなぜ現在まで残ったのでしょうか。そこには富山県庁の存在が大きく関わっています。さて、県庁と城址の保存にはどのような関係があるのでしょうか。



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