富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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はじめに

富山市郷土博物館(とやましきょうどはくぶつかん)富山城(とやまじょう))は、(やく)年半(ねんはん)にわたる改修工事(かいしゅうこうじ)()え、平成(へいせい)17(ねん)11(がつ)()富山城(とやまじょう)歴史(れきし)紹介(しょうかい)する博物館(はくぶつかん)としてリニューアルオープンしました。展示室(てんじしつ)(はい)ると、そこには(あたら)しい展示(てんじ)テーマ「富山城(とやまじょう)ものがたり」の世界(せかい)(ひろ)がっています。

富山城(とやまじょう)歴史(れきし)といっても、あまり(くわ)しいことは()らないなという(かた)(おお)いのではないでしょうか。それでは、簡単(かんたん)富山城(とやまじょう)歴史(れきし)()(かえ)ってみましょう。

富山城(とやまじょう)天文(てんぶん)12(ねん)(1543)に、神保長職(じんぼながもと)によって(きず)かれました。実際(じっさい)縄張(なわば)りは家臣(かしん)水越勝重(みずこしかつしげ)によってなされたと(つた)えられています。その()越後長尾氏(えちごながおし)上杉氏(うえすぎし))や一向一揆(いっこういっき)などによる争奪(そうだつ)()となり、さらに佐々成政(さっさなりまさ)前田利長(まえだとしなが)居城(きょじょう)となりました。()いで加賀藩(かがはん)から富山藩(とやまはん)10万石(まんごく)分藩(ぶんぱん)し、寛永(かんえい)16(ねん)(1639)に初代藩主前田利次(しょだいはんしゅまえだとしつぐ)入城(にゅうじょう)しました。以後(いご)明治時代(めいじじたい)(いた)るまで、(やく)200(ねん)(あいだ)富山前田家(とやままえだけ)13(だい)居城(きょじょう)でした。


現在(げんざい)城址公園(じょうしこうえん)は、この富山城(とやまじょう)跡地(あとち)であり、郷土博物館(きょうどはくぶつかん)城址(じょうし)()っています。でも、現在(げんざい)公園(こうえん)街並(まちな)みを()て、富山城(とやまじょう)姿(すがた)想像(そうぞう)することは(むずか)しいと(おも)いませんか。そこで、博物館(はくぶつかん)のリニューアルオープンを()に、まずは今私(いまわたし)たちが()らす(まち)(むかし)富山城(とやまじょう)のつながりを()るため、明治時代以降(めいじじだいいこう)富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)()てみることにしましょう。

明治時代後期の石垣と堀:古写真
明治時代後期(めいじじたいこうき)富山城址(とやまじょうし)

石垣(いしがき)(みなみ)から堀越(ほりご)しに()たところです。現在(げんざい)(みぎ)石垣上(いしがきじょう)天守閣(てんしゅかく)()っています。

富山城(とやまじょう)(わたし)たちが()らす(まち)どのような(いと)でつながっているのでしょうか。


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