船橋は、中町通と西之丸後通の間に最初設置されたことがわかりました。
その時期は、利長が富山城及び城下町の改修整備を行った慶長10(1605)年とみられます。このとき利長は、船橋町小島町間を渡船で通過していた北陸街道を船橋町から南へ曲げて神通川を越え、城下に引き込みました。
この理由として、城の西側に存在した大手枡形門前に幹線道路を引き交通の利便性を図ること、渡船以上の運搬量の確保、宿駅制に基づく道路交通網の整備上の必要性などが考えられます。 |
慶長14(1609)年、富山城・城下町は大火で焼失しました。このとき城に近接した船橋が被害を受けたかどうか不明ですが、架け直し等の記録が見えないことから、被害は小さかったと推定されます。利長はすぐさま高岡に移りますが、富山には留守将を置き、街道沿いの商工業町として維持存続を図りました。
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承応3(1654)年には神通川洪水で船橋が流失しました。このとき城側の取り付け場所は水流で大きく欠失したため、同じ位置への復元が困難となり、寛文元年まで船橋は不在のままだったとみられます。寛文元年、旧船橋位置から100mほど上流の船頭町通と七軒町を結ぶ位置に新たに船橋が設置されましたが、寛文5(1665)年の洪水により再び船橋は流失し、2年後の寛文7(1667)年に同位置に修復したものと推定されます。
寛文3年から6年の「万治年間富山旧市街図」・寛文6年「御調理富山絵図」の2つの絵図に限り、神通川を描いているにもかかわらず、船橋を描いていません。このことは先の推定を裏付けるものといえます。 |
(古川)
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