富山船橋

(1)船橋は移転した

富山船橋は、富山城下町に入るため神通川に架けられた船橋で、小型の木舟を並べてその上に板を渡し、人馬が通行できるようにした橋の画期的な形態の一つです。
 
船橋についてのこれまでの研究では、慶長元年説(『富山高岡沿革志』)、慶長末から元和初(1615)年頃説(『吉川随筆』)、慶長年中説〔『肯搆泉達録』〕、慶安元(1648)年説(『前田氏家乗』ほか)が唱えられていましたが、高瀬保氏が慶長10年説(「神通川船橋考」)、後に慶長3年から4年説(「富山船橋考」)を提示され、以後はこの2説が主流となりました。

船橋を描いた絵図は、慶長国絵図と推定されている「越中国絵図」(東京大学総合図書館蔵)が最古のものです。正保城絵図の写図とみられる「越中国富山古城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)では、船橋が西ノ丸北西隅と舟橋町を繋いでいます。
その後の延宝5(1677)年「越中国富山城絵図」(富山県立図書館蔵)では、船橋は三ノ丸外堀北西隅に描かれており、「越中国富山古城之図」と位置が異なり100mほど上流側に移っています。このことは、元禄5年「富山城図」の注記や、「越中古実記」「諸旧記抜粋」でも一丁ほど上流側に移ったとしています。

これを裏付けると思われる絵図が「船橋向ヒ古地図」(富山県立図書館蔵)です。この絵図は船橋町、通称船橋向かいを描いた町絵図で、天保4年以後の製作とされています。絵図には北陸街道・社寺・改作小屋等が詳細に描かれ、町名の付いた通り名が付され、町並みと明地(散地)を区分して記入しています。
絵図で示される当時の船橋への経路は、「愛宕町通」→「手傳町通」→(90度南に折れる)→「船頭町通」→船橋でした。神通川縁は岡土手(堤防)が切れ、その両面には石垣が築造されています。そこから降りる階段五段があり川縁に至ります。絵図には船橋そのものは描かれませんが、階段の先が船橋です。
船頭町通と袋町通東詰の中間には、神通川縁に伸びる「中町通」があります。中町の名称はここがかつて目抜通であったことを意味するもので、船頭町通へ移転する以前の旧船橋北詰であったと推定されます。船頭町通と中町通の間にある「古手傳町通」は、中町通が経路であった頃の手伝人の居住した町屋で、船橋移転後の手伝人の町屋と区別するため古を冠したものでしょう。

「舟橋旧記」(『肯搆泉達録』)には「船橋北向ひは南に〔の下に〕(向)ひ家々並びあり。その前より東手伝町へ廻り、それより西の方へ懸りあり。手伝町この頃は御亭の向ひにあり。今の船橋向通りは田地にて小島高といへるよし。その後北向の家を毀ち去り田地の所直に通りになり、手伝町も今の所になりたるよし」とあります。この伝承に基づくと旧船橋は、古(東)手伝町と西ノ丸後通りの間に架けられていたことを示しており、移転の事実と一致します。
以上のことから、現在の舟橋の位置は移転後のもので、かつては約100m下流の安住橋東側に存在していたのです。
(古川)

船橋向ヒ古地図より

船橋向ヒ古地図より