瓦の生産

(1) 幕末期の瓦窯場「山岸村」

富山藩期の瓦は、燻瓦いぶしがわらと呼ばれる銀色に光る瓦でした。
燻瓦は、窯で焼成する後半に大量の松葉を投入し、酸素を遮断して、黒あるいは銀色の色付けをして作られる瓦をいい、軟質に仕上がった瓦でした。
富山城では、二ノ丸二階櫓御門や鉄門のほか、石垣や土塁上の土塀の屋根に葺かれていたと推定されます。

この燻瓦は一般的に、達磨窯だるまがまと呼ばれる日本独自の型式の平地式窯で焼かれました。達磨窯は、一般に長さ4mから5mの小型の窯で、中央に高い焼成部があり、その両側に燃焼口が設けられていました。
江戸では隅田川縁で今戸焼の陶器窯と並んで、達磨窯による瓦窯が操業されました。河畔に築いたのは、薪材などの原料の供給や製品の出荷を、大量に運搬できる川舟で行うためだったと考えられています。

城郭の燻瓦は多くの場合、城郭の近傍地で焼かれます。富山城の燻瓦を焼いた窯は、現在知られていませんが、その場所を推定する手がかりがあります。
『町吟味所御触留』の嘉永7(1854)年3月条「山岸村焼出瓦に使用奨励申触書」には、山岸村で焼いている瓦が完成するので、町中にも使用について奨励する旨の触書です。嘉永2年には、千歳御殿及び千歳門の瓦として「赤瓦」が焼かれていますが、これは本瓦で、城下町などでは普及しはじめた桟瓦が使用されており、触書の山岸村産瓦は桟瓦の可能性が高いといえます。
この桟瓦が、燻瓦なのか赤瓦かなのかは不明です。幕末期城下町からは、燻瓦・赤瓦ともに出土しており、この記録等からどちらの瓦であったか判断することは困難です。

山岸村は、当初利次が築城する予定であった百塚村の河岸段丘の直下にあり、神通川に面する低地に立地しています。現在どこに窯や作業場があったかはまったくわかりませんが、明治44年地形図には高台の崖下に小さな平場があり、地籍図でもそこの地目が他と異なる雑種地となっています。一つの候補地と考えられますが、現在は道路になってしまいました。

(古川)


瓦窯場山岸村までの舟運推定ルート
瓦窯場山岸村までの舟運推定ルート