富山城絵図
(2)「正保図」と「万治図」を比較する

17年度に行った試掘確認調査の大きな成果として、前田利長期と利次期以降で、石垣や土塁の位置や構造に変化が認められたことがあげられます。その変化は、それぞれの時期の城や城下町の様子を描いた絵図を検討することで、より詳しく理解することができます。

利長期の城の構造は(1)に述べた正保図に描かれ、利次期の城の構造は「万治年間富山旧市街図」(富山県立図書館蔵)に描かれています。

両者を比較すると、大きな違いが3点あります。

第1は、本丸・西の丸・二の丸で構成する内郭の主軸が、正保図と万治図で8から20度のズレがあることです。正保図の内郭は、外郭の主軸とほぼ一致し、内郭・外郭が一体的に整備されたことをよく表わしています。しかし、万治図には外郭と内郭に8から20度のズレがあり、一見すると城郭として不自然な縄張りを示しているといえます。万治以降に描かれた絵図のすべてがこのズレを持っています。

第2は、郭の大きさが縮小されていることです。本丸の大きさは、正保図では南北70間(126m)、東西85間(153m)と記入されていますが、正保図と同規格の天明から安政年間の絵図では南北54間(97m)、東西62間(112m)と、約7割に縮小されています。

第3は、石垣の形が違うことです。両図とも大手・搦手のいずれも石垣であることは変わりありませんが、正保図の石垣は、二つの単純な長方形石垣で枡形を構成するのに対し、万治図は現在残るような複雑に屈曲した石垣となっています。形を比較すると、万治図の石垣は、正保図の石垣に延長部分を付け加えたようにみえます。

このような大きな違いのうち、内郭のズレについては、正保図が図柄をきれいに見せるためズレを意図的に修正して描いたものと評価し、あまり注目していませんでしたが、17年度の発掘成果から、利長期と利次期の土塁位置にズレが存在することが明らかになったことから、両図のズレは事実として存在した可能性が高くなりました。このことは、正保図の縄張りがかなり信頼できることを示したとも言えます。

先に述べたように、正保図の縄張りのほうが城郭として自然な形であることが第一に挙げられますが、さらに万治図を詳細に観察すると、正保図の内郭の主軸と同一の地割が万治図の外郭内にいくつか存在することがわかりました。

これらの情報をふまえ、両図の内郭部分を重ね合わせると、大手石垣を中心点にして、万治図は西に10度以上ずらされて内郭が作り直されたと考えることができます。これは本丸の発掘成果とも矛盾しません。

利次が行った寛文期の富山城の改修は、荒廃した利長期の城の石垣を修復し、堀を広げただけにとどまらず、藩都にふさわしい城とするため、大手枡形石垣の位置と、本丸南辺、二の丸南辺、西の丸西辺の位置以外はすべて作り直した、大掛かりな改修工事であったことが明らかになってきました。
(古川)
 
正保・万治図を重ねたもの
正保・万治図を重ねたもの