富山城絵図
(1)最古の富山城絵図「正保絵図」

金沢市玉川図書館に「越中国富山古城之図」があります。

この年に描かれた城絵図は全国各地に数多くあり、幕府に提出を義務付けられたものです。絵図には城の細部の規模や街道等の詳細が記入され、加賀藩が正保4(1647)年に幕府に提出した正保図の控えか写しと考えられています。

この絵図が年代からみて最古の富山城絵図とみられます。

正保4年は、富山藩が発足する寛文元(1661)年まで、前田利次が居城として加賀藩から一時的に借りていた頃であり、慶長14年に焼失した利長期の城は修復されずそのままになっていた状況と思われます。利次は当初居城を呉羽山北端の百塚に築城しようとしましたが、測量の結果築城が困難という結果を受け、富山城を再整備して居城とすることにしました。

このことから、正保絵図に描かれた富山城と城下町は、利長期の城・城下町の姿であるとされています。

この絵図にある富山城は、本丸・西の丸・二の丸の3郭を内郭とし、東に「薪丸」という付属の郭が付随します。内郭を取り巻くように堀と土塁をもつ外郭が設けられ、侍屋敷が配置されますが、空き地が目立ちます。

城下町の縄張りをみると、町人地(町屋)は外郭の外に置かれています。このような形は関が原の戦(1600年)以後に多く、城が防備中心の構造から、領内の政治的な中心として機能する構造に変化したことを表しています。利長の新しい城づくりは、まさにそれと符合する構造を示しています。

この図で注目されるのは、外郭へ入る大手は西辺にあり、内枡形虎口となっています。したがって、大手枡形から入ると、左手前に西の丸を見ながら正面の二の丸枡形へ進み、左に折れて本丸に入るという経路となります。大手の正面と左前方に郭を置き、その間に本丸を置く形は、同じ利長の作った高岡城と類似した構造といえます。

また、内郭と外郭の主軸は一致しており、横を流れる神通川の方向を意識した地割となっています。この絵図は江戸初期の築城当初の姿を比較的正確に描いた図と評価され、今後詳細に検討する必要があります。
(古川)
 
正保図にみる慶長期富山城内郭構造
正保図にみる慶長期富山城内郭構造