シリーズ縄文講座(24)
縄文人の食生活とイノシシ
 
― 縄文人の食生活とイノシシ ―
縄文時代後期の古人骨の化学分析から、瀬戸内海では海産物が多いという特色があるものの、全体として本州では堅果類やイモ類を基礎としつつ、動物、魚類等の海産物を組み合わせた食生活で明確な地域差が認められないことがわかっています(米田2013)。
縄文人は身近に生息する動物すべてを利用しました。クリ・クルミ・トチ・シイの実のほか、ジネンジョ・カタクリ・ノビル・キイチゴなどの野生植物のほか、縄文時代早期からアサ・エゴマ・ヒョウタンの栽培が行われ、ウルシ・ダイズ・アズキ・イヌビエの管理や栽培も行われていたと考えられています(西本2012)。
貝塚出土獣骨の分析から、動物質食糧のうち、哺乳類ではシカ・イノシシが主体だったことがわかります。イノシシは縄文時代早期から存在し、家畜化(ブタの飼育)も稀にあったと考えられています(西本2012)。前期の富山市小竹貝塚蜆ヶ森貝塚からはイノシシの骨が出土しています。また、小竹貝塚からは‘ウリ坊’のイノシシ形土製品が、開ヶ丘狐谷V遺跡(縄文時代中期)ではイノシシの体全体を表現したらしい縄文土器が出土しています。
富山市開ヶ丘遺跡群(縄文時代中期)など、各地で見つかっている落とし穴はシカやイノシシを含む動物を捕獲するための罠と考えられています。このように、イノシシは狩猟対象(時には飼育対象)として縄文人に身近な動物だったのです。
富山市吉作遺跡(よしづくりいせき)でも、イノシシをかたどった装飾のある縄文土器片が出土しています。目は菱形の輪郭があり、位置や大きさも実物と異なるので強調された表現ですが、頭骨と鼻先の形状はとても写実的です。縄文人の主要な動物質食糧(哺乳類)の一つだったからこそ、じっくり観察して写実的な装飾に仕上げることができたのでしょう。
吉作遺跡 イノシシの横顔の装飾土器片
吉作遺跡出土 縄文土器片 
イノシシの横顔の装飾(オモテ)
  吉作遺跡 イノシシの横顔の装飾土器片(ウラ)
(ウラ)
しかし、吉作遺跡のイノシシ形装飾にあるような斑点は、自然状態のイノシシには生じません。斑点は鼻筋を中心に顔の上部に集中することから、落とし穴にはまったイノシシを撲殺して仕留めた時の血の固まりを象徴的に表現した可能性が高く、本例は縄文人のイノシシの狩猟方法を示唆する表現と考えられます。
イノシシの横顔の装飾土器片 模様詳細
 
― 縄文人と動物との共生 ―
藤田富士夫氏は前期〜後期の自然環境の変化を踏まえ、呉羽丘陵・射水丘陵の石鏃多量出土遺跡(前期:平岡遺跡、中期:北代遺跡・串田新遺跡、後期:二本榎遺跡)の様相から、長期の狩猟活動で減少したシカ・イノシシの増殖を促すために集落(狩猟センター)を移動させ、個体数の回復を待って旧地に戻るという、縄文人の自然との共生を読み解きました(藤田1996)。
(1.平岡遺跡、2.二本榎遺跡、3.北代遺跡、4.串田新遺跡、5.古沢遺跡、6.布尻遺跡、7.吉峰遺跡)
石鏃多量出土の主な遺跡と狩猟センターの移動図
石鏃多量出土の主な遺跡と狩猟センターの移動
(藤田1996挿図から作成)
縄文人は貴重な動物質食糧としてのシカ・イノシシを、言わば適正に管理していたのです。これらは現在、農林業被害・生活環境被害・人的被害など、多様な問題を現代社会に引き起こす有害鳥獣の一つとされていますが、近年はジビエ(狩猟で得た自然の野生鳥獣の食肉)としての活用も注目されています。現代社会でも、縄文人と同様に適正に管理し、共存したいものです。
 
参考文献
(公財)富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所 2014年 『小竹貝塚発掘調査報告』
富山市教育委員会 1987年 「吉作遺跡」 『昭和61年度富山市埋蔵文化財調査概要』
富山市教育委員会 2014年 「吉作遺跡」 『富山市内遺跡発掘調査概要]T』
西本豊弘 2012年 「人と動物の歴史」 『日本史と環境』 環境の日本史1 吉川弘文館
藤田富士夫 1996年 「縄文時代の生業活動」 『婦中町史 通史編』 婦中町
米田 穣 2013年 「縄文時代の環境変動と食生活」 『古代の暮らしと祈り』環境の日本史2 吉川弘文館