シリーズ縄文講座(22)
神通川と遺跡(2)
-縄文時代晩期の海岸線を探る-
 
縄文講座20では、打出遺跡の立地する自然堤防や古古川が遅くとも縄文時代晩期には形成されていたことを紹介しました。ここでは、当時の海岸線がどこにあったのか、埋没林から探ります。
埋没林とは、現在は海面下に没した樹根群のことです。その位置や生育年代、樹種を調べることで、その場所がいつ頃、どのような植生環境だったかを推定できます。
神通川河口部の海岸線を推定する際、参考になる資料は四方(よかた)埋没林(打出埋没林)と神通川河口埋没林です。それらをご紹介することから検討を始めます。
 
埋没林の検討
(1)四方埋没林(打出埋没林)
戦後、打出浜沖合150mから200mの地点で、地引網に木の枝が引っ掛かり、網が破ける事態が生じていました。そこで、富山県水産試験場により1948年から1950年にかけて潜水調査・伐採が行われました。伐採された樹種は、ヤナギの一種・オニグルミ・シラカシ・テラカシ・ブナ・コナラ・ヤマグワ・タグノキ・ケンポナシ・ヤブツバキでした。海図等との照合から、これらの樹根は水深3m前後にあったと考えられています。 
1965年に学習院大学によって四方埋没林の放射性炭素年代測定が行われ、埋没林が1950年から約2730年前のものと測定されました。近年、炭素年代を暦年代に較正するプログラムにより、縄文時代晩期後半頃に相当する紀元前1130年から761年の暦年代が得られました(中世岩瀬湊調査研究グループ 2004)。
 
(2)神通川河口埋没林
旧北陸電力火力発電所建設の際、ケヤキ片が引き上げられました。この場所は神通川河口から300m上流の旧火力発電所荷揚場付近で、ケヤキ片は工事で水面下を3m余り掘削した際に引きあげられたものです。樹根に泥炭(湿原植物などが枯死・堆積し、部分的に分解・炭化した土塊状のもの)が付着していたことから、埋没林と判断されました。泥炭層は砂丘などの形成により樹木のある場所が海浜の後背湿地に変わり、そこに堆積したものです。つまり、泥炭層が堆積した地形面は、当時の海水準とほぼ等しい高さにあったことになります。
ケヤキ片は、1965年に学習院大学によって放射性炭素年代測定が行われた結果、紀元0年前後のものと推定されました。
近年、炭素年代を暦年代に較正するプログラムにより、弥生時代後期に相当する紀元後47年から82年の暦年代が得られました(古川 2005)。
なお、ケヤキ片の出土地点とほぼ同じ工事現場から引き上げられた土砂のなかに、縄文時代前期、同中期の土器や石器、弥生時代終末期の土器や土製品、平安時代の土器や土製品、鎌倉から室町時代の陶器、江戸時代の陶器が含まれていました。これらの出土遺物は、この地が数千年にわたって集落が営まれた陸地だったことを示しています。
埋没林や遺跡が出土した地点は、1926(大正15)年の神通川河口付替工事で神通川の底に沈みました。つまり、これらは大正年間の神通川と古古川(考古学NOW「川と遺跡」参照)の間の微高地にあったのです。
 
縄文時代晩期の海岸線を探る
四方埋没林の存在から、縄文時代晩期後半頃には海岸線が現在より200m以上沖合にあったと推定されています。四方埋没林は当時海岸近くに生育していた樹木が、沖合に形成された砂丘等によって付近が泥炭地化したために枯れ、その後海岸線が移ったことで海底に没したものと考えられています。
富山湾では魚津や入善など他にも埋没林が確認されており、藤井昭二氏の研究により、次のような海水準の変動が復元されています。
@ 約1万年前(縄文時代草創期) 水深40m付近にあった
A 約8000年前(縄文時代早期) 水深20m付近まで上昇した
B 約7000年から6500年前
(縄文時代早期)
現海水準に達した
C 約6500年から4000年前
(縄文時代早期から中期)
現海水準より4mから5m高くなっていた
D 約3000年から1500年前
(縄文時代晩期から古墳時代中期)
現海水準より低くなり、最低期は現海水準より約2m低くなった
E 約1500年前(古墳時代後期) 現海水準に回復した
縄文時代の終わりから弥生時代にかけては「弥生の小海退」と呼ばれる寒冷な時期であり、現在よりもかなり沖合に海岸線が広がっていたのです。神通川河口埋没林から、紀元0年前後の海水準は河口から300m上流付近の水深3m余りとほぼ等しかったと推定できるのです。
江戸時代前期以降に制作された絵図(「西岩瀬絵図」(海禅寺蔵)、「貞享年中西岩瀬浜絵図」など)では、現在よりも沖合に湊町が広がっている様子のほか、四方近くには海とは切りはなされてできた湖沼(こしょう)潟湖(せきこ)が描かれています。また、寛文年間(1661年から1673年)には西岩瀬町の北端から海際まで400間(720m)あったとする記録も残されています。これらから、江戸時代の海岸線は現在よりかなり沖合にあったことがわかります。
埋没林の位置の特定に加え、それらの樹種同定や放射性炭素年代測定などから、海岸線のおおよその推移を跡付けることができます。古地形の復元は、地域史研究に欠かせない重要な作業の一つです。
 
参考文献
亘理俊次 1951年 「富山湾海底の直立株の樹種について」『植物研究雑誌』26巻
山口長三 1952年 「定置漁場改良指導」『昭和25年度富山県水産試験場事業報告』
木越邦彦
藤井昭二
1965年 「射水平野とその周辺産の炭質物の絶対年代とその意義」『富山県放生津潟周辺の地学的研究U』
藤井昭二 1965年 「黒部川扇状地の形成と富山湾周辺の埋没林について」『地球科学』78号
藤井昭二 1992年 「海底林と海水準変動-富山湾周辺を中心に-」『アーバンクボタ』31
中世岩瀬湊調査研究グループ 2004年 「「海中から中世岩瀬湊を探る」15年度海底探査報告」『富山市日本海文化研究所報』第33号
古川知明 2005年 「神通川底出土遺物のこと」『草島校下の歴史』第50号 草島校下郷土史会
富山市教育委員会 2006年 『富山市打出遺跡発掘調査報告書』
田中義文、伊藤良永、千葉博俊 2007年 「神通川下流域における古環境の変遷」『富山市考古資料館紀要』第26号
倉垣自治振興会 2009年 『倉垣郷土史』