四方沖海底よかたおきかいてい遺跡

江戸期の海岸浸食を示す
(富山地域)
神通川河口西部の富山湾岸には、四方漁港が存在します。この漁港の先は、深い四方海底谷になりますが、そこは中世に埋没した旧神通古川(古古川ふるふるかわ・カンの川と呼ぶ)の跡地です。
この付近は、近世前期には西岩瀬にしいわせ港(八重津やえづ西岩瀬湊『越中国射水郡伏木浦旧記』)と呼ばれる北前船きたまえぶね寄港地として繁栄した湊で、神通川の流路移転や度重なる海岸浸食により荒廃し、現在に至ります。
2003年から始まった中世岩瀬湊調査研究グループによる海底調査により、この四方漁港沖350mの海底谷岸部(水深約10m)に近世前期とみられる割石の存在が明らかになりました。
三次元マルチビーム測深等により、隆起した微地形と1mを越える大石約50個の存在を確認し、引揚げた結果、高岡・氷見海岸部産の石灰質砂岩で、矢穴やあな痕が認められたため、慶長後期頃に加賀藩の石切丁場から調達された石垣石材と判明しました。
この石材群は、海岸浸食により石垣構造物が崩壊した痕跡を示します。江戸期の諸記録から引揚地点は西暦1700年頃の海岸線付近に比定され、大石の考古学的年代と一致します。
石材実測図
石材実測図
この付近は、「廻船大法之巻」に挙げられる三津七湊さんしんしちそうの一つ「越中岩瀬湊」の候補地です。中世末までの越中国の主要湊は守護所湊の放生津ほうじょうづであり、岩瀬とされた記録を疑問視する見解もあります。
 
中世岩瀬湊の位置推定には中世期古地形の復元が課題です。この根拠となる資料には、1948年から1950年に漁港西側の打出で、海岸から60mから200m沖から100本余の樹根が引揚げられた記録があり、その放射性炭素測定年代B.C.1130からB.C.761によれば、縄文晩期頃の海岸線が200m以上沖にあったことを示しています。また前記のように、江戸期の記録から、江戸前期以降750m海岸線の後退が復元されるほか、「西岩瀬絵図」(稲荷山海禅寺蔵)、「貞享年中西岩瀬浜絵図」(富山県立図書館蔵)の表現によりそれらの事実が傍証されます。
 
以上の状況から、石材引揚げ地点付近には、江戸初期に護岸石垣施設(港湾か集落かは不明)が存在していたであろうことが推定されます。
これらは波により崩壊したもので、原位置をとどめていませんが遺跡と認定し、埋蔵文化財包蔵地として保護することとしました。
海底引き揚げ地点
海底引き揚げ地点
 
 
関連項目
  富山城研究コーナー
富山城の石垣 富山城の石材 (3)砂岩 2 意外な場所からの発見