打出遺跡は、富山市北西の海岸部に位置する集落跡で、中世(650年から800年前)の館跡です。
遺跡の北側はかつての神通川跡で、1mから3mほど低くなっており、館跡は河川より、やや南の内陸側に立地します。 なお、この川跡は、古墳時代前期頃に河跡湖のような状態になりましたが、古代には再び川に変化して、洪水の影響を強く受けるようになり、中世までに埋没しました。 |
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旧神通川跡 |
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湊に関わる館か -中世- |
中世の集落は、方形に堀で囲った屋敷地に、掘立柱建物・井戸・溝・土坑などを配置する館で、複数が所在します。この館群の南側には両側に側溝を有する幅90cmの道路が存在します。この道路跡は、下村(射水郡)の加茂神社方向に向かって延びています。 中世には旧神通川河口に三津七湊のひとつ「越中岩瀬湊」の存在が推定されており、この遺跡が湊町と関連しているのかもしれません。 |
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中世の道路跡 |
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古墳時代から中世における打出遺跡周辺 |
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参考文献 |
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富山市教育委員会 2004 |
「富山市打出遺跡発掘調査報告書」富山市埋蔵文化財調査報告138 |
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