牧野まきの遺跡

真言宗東薬寺の前身牧野寺?の建築材が出土
(大山地域)
牧野遺跡は、熊野川支流黒川の左岸河岸段丘上に所在する平安時代から江戸時代の遺跡です(写真1)。本センターが行った分布調査により、平安時代から近世にわたる陶磁器類が採集されました。遺跡の中には、桃井直常の墓と伝える市指定史跡五輪塔があります。
 牧野遺跡と東薬寺(東から)
写真1 牧野遺跡と東薬寺(東から)
 
昭和47年のほ場整備工事の際、土中から腐った柱材が何本も出土し、そのうち3本が真言宗東薬寺の薬師堂内に納められていました。発見されたのは通称カネツキダ周辺ですが、詳しい地点はわかっていません。このとき採集された珠洲焼甕(室町時代)も個人蔵されています。
 
カネツキダは、現在山の中腹にある東薬寺の麓にあたり、明治以前の東薬寺本堂はカネツキダの南側「テラヤシキ」にあったと伝えられています。
ほ場整備以前の公図をみると、カネツキダの東側には「双地蔵」があり、この付近で道が大きく屈曲しています。この部分は東薬寺の寺地でしたが、「テラヤシキ」以前にここに寺院が存在した可能性が高いといえます。
 
柱材はいずれも断面が八角形状で、水平に整えた柱底が残っており、礎石の上にあった柱と考えることができます。この柱材は、四角柱の隅角を45度方向に削った切面が行われた、いわゆる大面取柱です。材質はスギまたはヒノキ材とみられます。
最大の柱(写真2)は、現存長55.8cm、柱幅7寸(21.2cm)×6.5寸(19.7cm)です。7寸幅面は、面内4寸を残し見付1.5寸を削落とし面取りし、6.5寸面は、面内3寸(10cm)を残し見付1.75寸を削落とし面取りしています。面幅は前者2.1寸、後者は2.5寸です。各面内および面取部分は、手斧等で粗く仕上げられ、うち1面には楕円形のハツリ面が見えます(写真3)。
これらの柱は、7寸角と5寸角との2種の大面取柱に分けられ、前者が主柱クラス、後者が脇柱クラスの規格と考えられます。
 柱の外観
写真2 柱の外観
刃物による表面整形の跡   柱の断面
写真3 刃物による表面整形の跡   図 柱の断面
これらの柱材について、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定を行ったところ、9世紀末から10世紀後半の年代が示されました。したがって、柱の木材が伐採されたのは9世紀末以降となります。
このような大面取柱は、平安時代後期が最も顕著で、桃山期まで存在します。寺社建築では角柱は裳階・庇・向拝等に用いられ、格が低い。このような建物には、寺社・官衙施設などが想定されています。牧野遺跡例では、柱幅と面幅の比が1.8から2.8で、面取部分が大きく、桃山期以前の古相といえます。
 
以上により、この大面取角柱の年代は、平安後期11世紀頃以降とみることができます。この年代は、東薬寺本尊不動明王坐像の年代(11世紀前半)と符号します。この不動明王坐像は牧野寺の所蔵品と伝えられていることから、この柱材は牧野寺に関する大面取角柱であったと推定されます。
 
 
参考文献
 
古川知明、パレオ・ラボAMS年代測定グループ 2011年
「医王山東薬寺蔵柱材の調査」『富山市の遺跡物語』第12号