北押川・墓ノ段窯きたおしかわはかのだんかま

奈良時代後半の陶製・製鉄遺跡
(富山地域)
北押川・墓ノ段遺跡は、富山市池多地内に所在する縄文時代中期の集落遺跡(遺跡探訪「北押川・墓ノ段遺跡」)、奈良時代の須恵器生産の窯業遺跡です。
井田川左岸の開ケ丘台地から北へ延びる細長い低丘陵の頂上部に、縄文時代中期の集落が営まれました。
平成15年農道工事に伴う発掘調査を行い、炭窯5基・須恵器窯2基を検出しました。木炭は製鉄炉で使うことから、製鉄・製陶の窯業地ようぎょうちであったといえます。
 
炭窯
いずれも半地下式登窯のぼりがま構造で、丘陵の東側斜面を利用して築かれました。

斜面の低い側に焚口たきぐちと作業場である前庭部ぜんていぶを設け、斜面の高い方に長いトンネル状の窯体(燃焼部ねんしょうぶ)があります。窯体の長さは10mから12m、幅約1mです。窯体の両側には数個の煙出けむりだしが付属します。

これらの窯では、残っていた木炭の分析結果から、クリが多いことがわかりました。クリは無駄な燃焼がなく、高温にするのに適した木です。前庭部から1.6kgの鉄滓てっさいが出土した窯もあります。

これらの炭窯は、8世紀中ごろから10世紀初め頃までの間に操業され、至近距離に存在したと思われる製鉄炉(竪形炉たてがたろ)に使われたとみられます。
 
須恵器窯
須恵器窯 位置図   須恵器窯の灰原検出状況
須恵器窯 位置図   須恵器窯の灰原検出状況
いずれも半地下式登窯構造で、炭窯同様、丘陵の東側斜面を利用して築かれました。

1号窯は、窯体ようたいの長さ約10m、幅約1.5mで、斜面下部に設けられた灰原はいばら(壊した窯の天井や焼成失敗品の捨て場)は長さ3m幅4.5mの規模でした。

2号窯は、1号窯とわずか2mの距離で築かれています。窯体長さは約8m、灰原は長さ5m、幅6mです。

灰原からは大量の須恵器が出土しました。ふたつきつぼかめ横瓶よこべ・小壺・ばんなべがあります。

生焼け品(十分な還元焼成かんげんしょうせいに至らなかったもの)は、1号窯で12%、2号窯で7.5%ありました。

須恵器の年代は、奈良時代後半と推定されます。8世紀中ごろの代表的な窯には、北1.5kmにある栃谷南とちだにみなみ遺跡瓦陶兼業窯がとうげんぎょうよう(市史跡)があります。蓋・杯・壺・甕類が極めて似ている一方、2号窯の杯は体部が大きく外半しており、栃谷南窯より後出的といえます。

よって本遺跡では、1号窯から2号窯の順で操業されたと考えられます。
北押川・墓ノ段窯と栃谷南窯の須恵器比較
北押川・墓ノ段窯と栃谷南窯の須恵器比較
 
本遺跡の所在する射水丘陵東部地域では、白鳳はくほう時代から平安時代において、製陶・製鉄遺跡が集中して存在しており、一大窯業地帯でした。本遺跡周囲2kmの範囲には、須恵器窯として、平岡窯・開ヶ丘狐谷X窯・平岡神明社裏窯・栃谷南窯・山本新藤ノ木窯等があり、また鉄生産は、北押川B遺跡 ・御坊山遺跡・池多南遺跡で製鉄炉が検出されています。本遺跡の窯もこのような大規模窯業生産における一翼を担ったのです。