北押川・墓ノ段遺跡は、富山市池多地内に所在する縄文時代中期の集落遺跡、奈良時代の須恵器生産の窯業遺跡です。
井田川左岸の開ケ丘台地から北へ延びる細長い低丘陵の頂上部に、縄文時代中期の集落が営まれました。
昭和47年の北陸自動車道建設に伴う調査では、廃棄場とみられる径約4mから5mの遺物集中地点2か所と土坑、平成12年墓地造成に伴う調査では、竪穴建物4棟、土坑2基を検出しました。 竪穴建物SI01は、同じ位置で住居構造を変えて改築されたことがわかりました。 |
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竪穴建物SI01全景 |
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竪穴建物 |
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最初の住居(1期)は、長さ4.4m、幅3.5m以上の楕円形と推定されます。
主軸はN-85°-Wです。主柱は、5本か6本で、柱穴4本が溝でつながれています。柱穴は1.6mから2.3m間隔で円形の配列となります。柱穴の一つは小礫数個を並べ、柱の根元を補強していました。中央には大きな石組炉がありました。12個程度の川原石を太鼓形に並べた形で、長さ125cm幅80cmでした。うち一辺は2重に石を並べていました。 |
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竪穴建物SI01石組炉 |
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建て替え後の住居(2期)は、長さ4.4m、幅3.5mの楕円形です。主軸をN-50°-Eとし、1期の建物とは45度(135度)のずれがあります。丘陵斜面地の方向を意識しているようです。主柱は6本で、柱穴は1期より一回り小さい。柱穴の間に直線的で短い溝があります。床面は叩き土間で、中央の石組炉は、当初70cm×60cmの正方形でしたが、後に88cm×60cmの長方形にし中に土器片を敷きつめた炉に作り替えられました。 遺構の配置等からみて、集落の規模は、東西100m、南北160mに復元されます。集落内部の構造は、北部に遺物廃棄場、東から南部に居住域、その間は、土坑数基が点在するにすぎず、広場とみられます。 |
同じ縄文中期には、南方500mに開ヶ丘狐谷V遺跡など中核的な集落がいくつも営まれていることから、本遺跡は分村的な性格であったと考えられます。 |