今市遺跡は、海岸から2kmの平野部に位置し、神通川旧河道に面した標高5mから6mの河岸段丘に立地します。約300ヘクタールに及ぶ広大な面積に広がり、今回の調査をした大字八幡をはじめ、今市、布目、八町、寺島の5つの集落を含みます。 |
市立八幡小学校体育館改築工事に先立ち850平方メートルの発掘調査を行ったところ、平安時代前期(約1100年前)、江戸時代後期(約300年前)、明治時代から昭和時代の遺構や遺物が見つかりました。 |
平安前期の竪穴住居(竪穴建物)3棟・掘立柱建物4棟・道路状遺構、江戸後期の溝・土坑・柱穴、昭和17年以降に建築された八幡国民学校の基礎部分が見つかりました。 |
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発掘調査区(南から) |
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古代道路に面した集落(平安時代前期 9世紀後半) |
3棟の竪穴住居にはいずれも柱穴がなく、住居の四辺に周壁溝と呼ばれる溝が廻っており、壁で屋根を支える構造の建物だったと推測されます。 |
竪穴住居の1棟では、床を作る際に「由」と書かれた墨書土器を埋めていました。「由」の文字を記した墨書土器の出土は県内からは初めてです。 |
近隣では新潟県長岡市の古代の役所跡と推測されている国史跡八幡林遺跡から「由」を記した土器が多数出土しています。 |
一方調査区の東端では、幅5mから6mの距離をおいて南北方向に並走する2本の溝が確認されました。この溝は、道路の側溝と推定されます。 |
呉羽丘陵から西に延びる長岡台地やその縁辺部、神通川の旧河道の河岸段丘上には奈良時代に「射水郡寒江郷」の村々が形成されました。平安前期になると台地北側に広がる平野部に新たな集落が形成されます。今市遺跡もその拠点となった集落の一つとみられ、平野部の開発が進んでいったことを物語っています。 |
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墨書土器「由」 |
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竪穴住居と掘立柱建物 |
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北陸街道に面した屋敷地(江戸時代から明治時代18世紀から19世紀) |
江戸時代の屋敷地割を区画したと推定される溝が検出されました。現在の市道と並行しています。この市道は江戸時代の北陸街道(往還道・草島道)と推定されており、加賀藩が参勤交代の際に高岡から魚津へ向かうために通った重要な道でした。屋敷地は北陸街道に面し、加賀藩領と富山藩領の境界に近いことから通行の許可が下りるまでの休憩所などとしての役割が推測されます。 |
明治時代の古い地割図をみると、周囲が耕作地なのに対して、この体育館のある場所だけ広い宅地となっており、早くから何らかの屋敷地があったと推測されます。 |
また、明治期になってから製作された湯呑みには梅鉢文や「呉羽」と朱書きされた文字、「九谷」の印刻、参勤交代の様子が描かれていました。加賀藩が参勤交代に利用した御成道だったことを彷彿とさせる一品で、注目されます。 |
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関連項目 |
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関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます) |
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富山市教育委員会 2011
『富山市内遺跡発掘調査報告書X』 |
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富山市教育委員会 2013
『富山市今市遺跡発掘調査報告書』 |
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富山市教育委員会 2014
『富山市内遺跡発掘調査概要]』 |
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