八ヶ山Aはっかやまえー遺跡

史料にみえる奈良から室町時代の集落か
(富山地域)
   
八ヶ山A遺跡は、富山市北西部の神通川左岸、標高6mの平野に立地し、南側は呉羽丘陵くれはきゅうりょうと台地が迫っています。

平成26年度の発掘調査で、奈良・平安・鎌倉時代の区画溝や井戸が見つかりました。区画溝は、2条から3 条を一単位とする溝で集落の周囲を大きく区切り、その内側を1条の溝で細かく分けたと推定されます。
奈良・平安時代も鎌倉時代も溝の方位が同じであることから、長期間同じ地割ちわり踏襲とうしゅうしながら集落を営んだことがわかります。
3条からなる鎌倉時代の区画溝
3条からなる鎌倉時代の区画溝
鎌倉時代の井戸からは、はし状の細長い木製品が出土しました。食器等が一緒に出土していないことや他の遺跡の事例から、井戸の中や地面に刺し、井戸を鎮める祭祀さいしを行った道具と考えられます。
   
近年の調査で近くの八町はっちょうU遺跡、北代村巻X遺跡百塚住吉ひゃくづかすみよしD遺跡などでも八ヶ山A遺跡と類似した方位・規模をもつ区画溝が確認され、奈良時代から室町時代にかけて、同様の構造の集落が周辺に広がっていたことがわかってきました。
奈良から鎌倉時代の土器
奈良から鎌倉時代の土器
 
この付近は、古代に「寒江郷さむえごう」と呼ばれる集落、中世に「寒江荘さむえのしょう」と呼ばれる荘園が存在しました。発掘調査で見つかったこうした集落群が、寒江郷や寒江荘に比定できると考えられます。