富山大空襲体験文

TOP > 富山市民感謝と誓いのつどい > 富山大空襲体験文 > 牧田清平 氏

牧田清平 氏(富山市)

「無題」

 昭和20年(1945年)8月2日未明空襲警報のサイレンで目が覚めた。

 当時、私の家は旧星井町小学校近くにあり、家族は父(48歳)、母(38歳)、長男(18歳)、長女(16歳)、次女(14歳)、次男小学5年(11歳)、私三男小学2年(8歳)、四男(4歳)、三女(2歳)の9人家族の大所帯であった。そのため避難に際しては、誰と誰が一緒に逃げるか決められていた。私は小学5年の兄と、次女の姉は妹を乳母車に乗せ、母は弟の手を引いて、父は長男(肢体不自由)という組み合わせであった。(長女は当夜は宿直勤務で不在)
 そして、1次避難場所は、町内の神社内に作られた防空壕、2次は根塚の公共施設とし、ここまでは町内の避難訓練でよくやっていたので慣れていた。万が一の最終集合場所は、秋ケ島の父方の親戚であった。
 私と兄はいつも枕元に置いてある防空頭巾を被り、着替えと煎り豆とカンパンが少々入ったリュックを背負い神社内の防空壕に向かったが、途中で早くもB29から落とされる焼夷弾と爆弾で瞬く間に北の空や富山駅方面が真っ赤になってきた。ヒューヒュー、ドドドン、バリバリ、バンバンというものすごい爆発音などで恐怖のあまり足がすくんだ。しかし、怖いもの見たさに空を見上げるとB29の編隊が南西の空から北東方向にゆうゆうと飛んでいく、B29は市内の火災の照り返しでまるで赤とんぼが無数に飛んでいくようであった。何故かB29は音もなく飛んでいるようで不思議な感覚になったことを今でも覚えている。
 何とか兄と2人、町内の防空壕に逃げ込んだが小さい壕なので人で一杯であったし、何しろヒューヒュー、ドドドン、バリバリ、バンバンという物凄い音が恐ろしくとても壕にとどまれず(今から思えばそのまま壕にいたら焼死していたと思う。なぜなら神社の拝殿や町内の家屋は全焼であった)町内会長さんが入口で番をしておられ制止されたが、振り切って兄と2人で逃げた。道順は避難訓練でよくわかっていたのと、避難する人で行列ができていたので心配はいらなかった。2人は大人の人々を追い越し、追い越し走りに走った。私は疲れと恐ろしさで「田圃に入って休もう!」と言っても、兄は「だめだめ!」と言って休ませてくれなかった。途中で姉と乳母車に乗った妹を追い越した。2歳の妹は「ニイチャン!」と叫んでいたが、振り切って走った。
 空襲はどの時点で終わっていたのか記憶にないが、最後はほとんど避難する人がいなくなるほどの現在の飛行場付近まで逃げた。
 疲れきった私たちは知らない農家の前庭で他に4,5人の避難者の人と一緒に、柿の木の下に筵をひいてもらい休ませてもらった。
 そうこうしているうちに東の空が白み始めたので、予定にはなかった近くの母方の親戚(家財道具などを少し預けてあった)へ行ったが、誰も来ていなかった。そこで、予定通りの父方の親戚へ行くと、全員無事に避難しており、皆で喜び合った。これは、家が市の中心地でなく、南はずれで避難しやすかったお陰と思っている。
 父からは、最後まで残って家を守ろうとしたが猛火のためどうすることもできなかった話を、母からは、弟と一緒に途中の小川に入り空襲の終わるのを待った話を、姉からは、人込みと道のでこぼこで乳母車を押すのが大変だった話を聞かされた。
 結局、家と蔵は全焼、とくに、父は蔵は焼けないと信じており、ほとんどのものを蔵に入れていたので、衣食住の衣住を一遍に失うことになった。食は、その前から不自由していたので、三重苦である。焼け跡には、石灯ろうと焼け焦げた梅の大木が立っていた。(後になって蔵の焼け跡から皿や茶碗などを掘り起こし使う)
 そして、その日のうちに私たち家族は、婦中町田島の母の実家に疎開し、21年3月まで世話になった。田島には、母の兄弟がおり、とくに食の面でなにかと助けられた。

 しかし、いつも思うのは、この未曾有の混乱期、どこからもほとんど援助が受けられなかったであろうときに、父母は私たち8人(四女は戦後生まれる)の子供をどうやって育てたのか、自分のことながら唯々不思議でならない。

 上の2人は亡くなったが、94歳を筆頭に6人は施設で世話になっている者も含め健在である。長生きのできる体に生んで育ててくれた父母に、この年になっても感謝の念で一杯である。


≪戻る