丸山順子 氏(神奈川県)
東京(今の新宿区)に住んでいた私は小学1年の時に父が出征し、母と2人きりになったので母の故郷大阪に転居しました。大阪では、学校へ行けば空襲警報が鳴り、家に帰るという繰返しで祖父母の住む富山市へ疎開したのは1945年終戦の夏です。
大阪から富山へ向かうときの列車のすさまじさは忘れられません。切符を取るのも母は大変苦労したようです。今では考えられない混みようで子どもの私は4人掛けの座席に座った大人の足の間にしゃがみこんで居場所を確保させてもらいました。トイレにも人が乗っています。駅に停車すると、大人たちが万歳のようにして私を抱え上げ、リレーのようにして窓から降ろしてくれました。トイレが見当たらず、離れたところで用を足すと窓から引き揚げてもらい、また大人の足の間で身を小さくして富山までの一晩を過ごしました。
その頃は全国的に空襲があり、「富山市も空襲が来るのでは」と噂されていました。8月2日に私たちは、富山市内から滑川に転居する予定でした。前日の夜、母と隣組の人たちは防空壕にいてマッチを分けるのを私はそばで見ていました。貴重な配給のマッチを1本1本並べて数え、皆に分け終わり、防空壕を出たところ空襲警報が鳴っていました。空襲警報の前には避難警報が鳴るのですが、それは終わっていたようです。母と祖父母と私は、神通川へ逃げるつもりでしたが逃げ遅れ、小さな川に逃げました。私の胸まで水があり、真夏なのに冷たくきれいな水が勢いよく流れていました。神通川に逃げた人々は、上空から発見されて攻撃で大勢亡くなりました。
「伏せろ!動くと見つかる!」と怒られたので、凍えながら川に浸かりじっとしていました。あたりは何もない野原で、遠くに建物が見えました。出入りする人影が動くのが見えたと同時に火の手があがりました。爆弾を落とされたのです。未明の3時半か4時頃、米軍機は去っていきました。
市内の様子を見に行った祖母は、たくさん人が亡くなっているのを見たそうです。家に戻ってみると家屋は焼け、床の間の形もわからなくなっているのに、前日、床の間に置いた毛糸玉が炭化して、そのままの形で残っていました。引越の荷物を運ぶ人たちに食べてもらおうと浅めの井戸に入れておいた木蓋をしたお釜のお米が炭のように真っ黒になっていました。食べられるものは何もなく、炭のようになったお米を食べてしのぎました。あたり一帯は、焼けて煙があちこちでくすぶっていました。富山市で唯一あったデパートからは、まだ煙が出ていました。
滑川へは昨夜背負った荷物だけを持って母と祖父母とで徒歩で向かいました。市内から出ていく人、知り合いを探しにやってくる人たちであたりはいっぱいでした。祖母の知り合いが、「あっ、お嬢さん!」と祖母に声を上げました。親戚に渡すつもりの持っていたおにぎりを私たち家族にくださいました。白米のおにぎりと、きな粉のかかったもの2つでした。真っ白に輝くおにぎりのおいしさは、今も忘れられず、あの時の味を超えるおいしさにはその後、出会ったことはありません。滑川には、母と私、祖父母と別の家で間借りして暮らしました。
雨や雪が降ると靴を抱え素足で登校するような生活でした。お米はあまりなく、お芋と大根ばかりの覚えがあります。
満州へ出征した父は、1946年(昭和21年)5月、実家のある兵庫県の甲子園に帰還しました。自分の家と隣家だけが焼けずに残っていたそうです。私たちが富山にいることを知り、再会できました。父は、戦争前に勤めていた会社に通うため、母と東京の家に戻りました。家は疎開するとき人に貸していたのですが、8畳間だけをなんとか開けてもらいました。父と東京で暮らす母は、満員電車に乗って富山に通いました。
大阪商船に定年まで勤めた祖父の晩年は、つらいものだったと思います。祖父は、戦後、疎開先で亡くなりました。私は、小学5年の時、祖母と東京に戻りました。
滑川の人たちからは、「東京はまだ大変だし、こっちにいれば」と言われました。富山湾に面した滑川市は、お魚もおいしく、夕方、海辺に行くと、海上にホタルイカがたくさん光っていました。川辺でゴムまりを投げて友達と遊んだこと。そのゴムまりが川に落ち、追いかけて海まで走って拾い上げたことなどは楽しい思い出です。その友達も亡くなり、会えなくなったのは寂しいことです。
富山大空襲の前日、空襲警告の紙が空から撒かれたと聞きました。誰が撒いたのか。
兵庫県に住んでいた父方の祖父は、8月6日防空壕を出たとき米軍に撃たれて即死、祖母はそのとき撃たれた右手が亡くなるまで、ずっと不自由でした。