長谷川幹雄 氏(東京都)
私の名前は幹雄といいます。実は私には兄と姉がいたのですが、二人とも夭折してしまいました。もしかして、今の世の中ならばもっと生きていたかもしれませんが、その当時は戦時中で物資も乏しく、十分な医療も受けられなかったのでしょう。そして、生まれた私には木の幹のように太くたくましく育ってほしいという願いを込め、幹雄と名づけられました。
さて、富山大空襲があった時には、私はまだ星井町国民学校の一年生でした。住んでいたのは富山市西中野町、そこに祖父母、両親、二十歳になる従姉、三歳になる弟、七人で住んでいました。
空襲の前日、八月一日は夜に空襲警報が鳴りました、家のすぐ前に七~八人が入れる防空壕があったので、家族でそこへ避難をしました。しかし、その後は何も起こらなかったので、家に戻り安心して寝てしまいました。すると、夜中にまた空襲警報がなり、今度は本当に爆弾が落ちてきました。また、さっきの防空壕へ行きましたが、その時はすでに避難している人達がいて、私達はそこへは入らずに逃げることにしました。逃げる時には祖父母、両親と弟、従姉と私というペアになってそれぞれが避難し、南富山の四谷酒店で落ち合うと家族で決めていました。その頃、その辺りは一面に田んぼが広がっていて、そこには爆弾は落とさないと考えたのでしょうか。
私は従姉に手をつながれ逃げました。振り返ると白い洋館だった自宅が火をあげて燃えていました。どういう道をどう逃げていたかはよく覚えていません。ただただ、燃える家、落ちてくる爆弾や火の粉の中を従姉に手をつながれて必死に逃げたことを覚えています。私達だけではなくみんな必死でした。従姉はこの時、「もし、家族が死んでしまったら、この子は私が育てるのかしら。」と思ったそうです。
どれだけ逃げたでしょうか。空が明るくなり始めた頃、家族で決めていた場所に着きました。そこには、祖父母の姿がありました。次に母が弟をおぶって、灰やススで真っ黒になった顔でやってきました。でも、父の姿はありません。母は私達と落ち合うと、ふらふらと歩いて周りの人達に父を見なかったか、聞いて回っていました。母はほうぼう尋ね歩きましたが結局、父の消息はわからず、なかば狂ったようになっていました。お父さんが死んでしまったのかもしれない、そんなことを思いながらその日は終わりました。
そして、次の日がやってきました。遠くから父が歩いてやってきました。生きていたのです。後で聞いた話では当時、富山市立女子高等学校の教員であった父は、学校の奉安殿にある天皇陛下の肖像を空襲から守るために学校へ行き、消火活動をしていたそうです。今思うと、校長や教頭でもないのになぜ父がそんなことをしなければならないか不思議ですが、自宅から学校が近いので、そんな役目を言い渡されていたのかも知れません。
私達の家族は全員が奇跡的に大空襲から生き延びることができました。家のあった場所に戻ると、家は跡形もなく燃え尽きていました。父が入ることのできなかった防空壕を見に行くと中で三、四人の人が蒸し焼きの様になって死んでいると話をしていました。火が燃え盛る中、一酸化炭素中毒にでもなったのでしょうか。今考えると私達もそこへ避難していたら、こうして生き残っていなかったのかもしれません。
大空襲から生き延びても、次に生活を立て直すことが大変でした。市中に住んでいたので食糧を手に入れることが大変で、神通川を母と渡り、着物と米を交換しに行ったことを覚えています。
【以下、代筆された子の隆様より】
私は父から、幼い頃に富山大空襲があり、命からがら逃げたことを度々聞いていました。これはこの貴重な体験を父から聞きとりながら、その体験を綴ったものです。
父は今年八十七歳、そして、一緒に逃げた従姉は九十九歳になります。どんな様子であったかは想像するしかありません。戦争の記憶が薄れてきている中、これからの未来のためにも、貴重な体験を語り継いでいかなければならないと思い、筆をとりました。
世界に目を向けると今まさに戦争状態である国はまだまだあります。戦争は多くの人の命や家、希望を奪います。父の記憶が、これからの未来を担う人達がみんなで平和に暮らせる世の中を創る、そんな一助となることを願っています。