吉村美也子 氏(高岡市)
富山大空襲のあった日、私は高岡市に住んでいました。1945年8月2日午前0時、高岡に爆弾が落とされるという情報で、祖母、母、3歳上の姉と私の女性4人は歩いて20分位の小矢部川の河川敷を居場所に決め避難しました。父は、消防団の仕事に出かけていて留守でした。
河川敷は、すすきの長い緑の葉と近くの稲田とで青々と広大な面積が広がっていて、すすきの葉は4才だった私の身長よりも高く生い茂り、その間から空が見えました。
祖母、母が持参した蚊帳(当時のそれは緑色で部屋の四隅の釘に紐を引っ掛けて使う)の下に4人で身を潜めていました。それは、人の気配が空から見えないようにするための浅はかな知恵でした。
河川敷には、私たち以外には誰もいなかったのか、移動途中に誰にも会うことはなく、そのときは村中が静まり返っていたのを覚えています。
姉と私はリュックを背負っていて、その中にはお金とお米が入っていたそうです。それがあれば、迷子になっても誰か助けてくれるだろうとの祖母、母の考えだったそうです。
やがて1時間ほど経ち、向かい側の土手の向こうの道の上がピンク色に染まりました。音は全然せず、眺めていると再びピンク色の範囲がどんどん見る見るうちに富山側の空一面に広がっていき、それは真っ赤な火のようではなく、濃い濃いピンク色で埋め尽くされていきました。その時の私は怖いとも思わず、なんと美しい!綺麗な色!なんだろうとポカンとして見ていました。
4人は声も上げず眺めていたのを覚えています。その時の私たちのいる河川敷の空は、爆撃機はおろか飛行機の一機も飛んでいず、土手の向こう側とは違いシーンと静まり返り別世界のようでした。
しばらく見ていましたが、何の変化もなく静寂のみ。もう終わったんだという感じで家路につきました。
当時、4歳の私はその後のことは全然覚えていませんが、現在感じるのは、県都富山市の人たちが想像を絶するいかに生き地獄のようであったであろうと思い、毎年の8月2日は日本の永遠の平和を願う日なのです。あの空の色が鮮明に蘇ってきます。