扇谷朋美 氏(富山市)
ラジオから流れる「空襲警報発令」の声とサイレンのけたたましい音を聞くとすぐ防空頭巾を被り、防空壕に入り、怖くて身動きできず、ただ震えていました。米軍機やB二十九がすさまじい音をたて上空を行き交っているのです。
しばらくして外に出てみると、神通川より東側の富山市街は、真赤な煙が空迄一面に染めているのを、ただ呆然と見ているだけでした。遠くを走る高山線の列車は赤い帯の様でした。家の横の稲田の中を人々が、かがめながら通って行きます。四才の私は何をしているのかわからず、疎開してきていた曽伯母に尋ねると「誰もが毛布等を被り身をかがめながら逃げているのだよ」と教えられました。何処にいても安全という場所はないのに、誰もがじっとしておられなく稲田を腹這いになりながらも逃げたのでしょうね。
私達家族は「死ぬのなら家で死のう」の母の一言で防空壕で身を寄せ合っていました。
十三才の兄は藁屋根の上で竹箒を持ち走り回っています。下では曽伯父が「ホラ右、左」と指図していた姿は今もはっきり思い出せます。火の粉が屋根に落ちない様にと払っていたのです。どんなに怖かったことでしょう。
当時、家を守るのは、高齢者、女性、子供でしたから。
母は阿弥陀如来像を本堂から抱え持ち出し玄関前に来たその時、ヒューンと音がしたので一歩後退した足先に焼夷弾が落ち、阿弥陀様の片手が落ち、母の命を阿弥陀様が救って下さった一瞬の出来事だったと聞きました。
ヒューン、ジュー、焼夷弾が田に落ちる音です。
近所の家から煙が出ている。と言って母達はバケツを持って走り、その家の横を流れる川からバケツリレーで消火し帰ってきました。
この様な怖くて長かった一日は、今なお脳裏を過ります。
翌日、防空壕から出てみると、四角い椅子の様な型や細長い六角形(かな)の様な焼夷弾の燃えがらがいくつも落ちていました。
各家々の窓ガラスにはテープで目張りがしてあり、電球には灯りが外に漏れないようにと黒い布で覆われていました。ラジオの声がガーガーと聞きづらいと、ラジオの横を叩いて耳を近づけていました。いつ、又「空襲警報発令」が出されるかと誰もが落ちついて寝ることもできなかったのでしょう。
私は練兵場(今の五福の県営競技場)の近くの小さな寺院で育ち、毎日の様に兵隊さんのラッパの音を聞いていました。
何日か後、終戦になり、何軒かの親戚が疎開してきたかと思うと、庭にコンロを持ち出し食事の準備です。子供達は農道で食べられそうな草を摘んでくるのです。
「家族の生死がわからない」と泣いている親戚もいました。
本堂の中は疎開者でごったがえしています。
秋になり庭に柿、いちじく、栗が実ると、親戚も何も関係なく取り合いの喧嘩がみられ、誰もが食べるのに必死だったのです。
前記の阿弥陀様の片手の折れた件で、母は苦しみを自分で何とかしたいと、年金をいただけるようになった時、京都の本山で修復してもらい、母の戦後の夢は、ようやく叶ったのです。その時の喜び様はいうまでもありません。
この様な体験を語り継げるのは、私の年齢あたりまでか、それも正確でないかも?と思いつつ投稿しました。
今、まだ他国では争いが続いておりますが、この様なことは絶対しないでください。
小さな命を犠牲にまでしてほしくありません。
この大空襲を後世に語り継ぎ、これからの世界の人々が戦争を無くし、平和な生活がおくられますよう、願っています。