吉野喜美 氏(富山市)
私が小学三年生になった頃より頻繁に空襲警報のサイレンが鳴り、夜になれば電気を暗くカバーをかけていた。学校では授業よりも避難訓練が行われ、体の小さい私は三角巾の包帯を身にまかれ負傷者となり、手作りの担架で上級生が校庭の竹やぶへ運んだ。家庭では夕方には父は玄関に家族の履き物を揃えさせ、防空頭巾、水筒等を用意する事厳しく言いつけた。その頃、我が家の裏の竹やぶ、隣家の竹やぶや、家の前の加茂神社の裏の雑木林も切り開かれて倉垣飛行場の特攻機七機が隠されていた。神社の横には三角兵舎二棟、境内にはドラム缶、爆弾らしき物が隠され保管されて、我が家には駐在兵二人泊っていた。
飛行場への道の整備にわが父の山畑の土をトロッコに運んでいた。よく子等はそのトロッコで遊んでいた。又、見張兵のいない時、飛行機に梯子がかけてあり、登って中を見た。十人程の席があった。その時見張兵に見つかり、鉄砲を向けられ、子供三人共気絶状態、本当に恐怖だった。思えば我が家の駐在兵二人によく慰問袋が届き、子供等はお菓子やトローチの様な甘い物をもらった。又姉は女学生でその一人の若林さんと言う兵士に結婚を申し込まれたとの事。癌で入院の七十歳過ぎの時、はじめて昔話として聞きおどろいた。その姉も間もなく亡くなった。
そして八月一日夜半、村に高らかと空襲サイレンが鳴り渡り、父母と同居していた従兄弟は家を守るため残り、祖母、姉、次兄、弟、私と庭の防空壕へ。ここでは危ないと父が言い、裏畑の防空壕へ移るが、そこは仏壇や家財道具が入っており、近くの森のある茶畑へ。姉は弟を背負い、祖母と私は手をつなぎ、次兄は一人でどこかへ行ってしまった。茶畑の間に毛布をかぶり、時々顔を出し村の方を見ると、焼夷弾が落ちたのか燃える家が見えた。又、村の人々は荷車をカタカタと引き四方の海の方へ行く様だった。東空見れば呉羽山越えの街空は真赤に染まり、B29がワラワラと焼夷弾を降り落とすのがはっきりと見えた。倉垣飛行場より特攻機が飛び立たないのかと思った。父母と従兄弟は杉の枝を手に持って屋根に飛んで来るかも知れない火の粉を払うと言っていた。ようやく夜明けとなり、茶畑の中から村の若い男が大きな声で「夜が明けた。起きろ。」と叫んでいた。家に帰ると、先走った三つ上の兄が敷台に座っていた。ガラス戸は全てこわれていた。前庭の柚の木と井戸の間に焼夷弾が落ち不発だったとの事。それを駐在の兵士が砂袋をかぶせ持ち去った様だ。恐怖の一夜が明けた。家族みな元気だった。気がつけばいつの間にか隠されていた特攻機七機も境内のドラム缶、爆弾はなくなり、兵士も去り、兵舎はそのまま残され、静かだった。父は即、街の親類を訪ねたが、家は焼かれ、家族三人は神通川へ逃げ助かったとの事。富山大橋の欄干には死人が沢山伏せ倒れていたとの事。聞くにもふるえて悲しかった。
いつの間にか神社の横の兵舎に焼け出された何軒かの家族が住まれ、境内は子供等の遊び場に戻った。富山空襲は八月二日未明で終った。
そして八月十五日、朝から蝉の声が高く、暑かった。子供は川へ泳ぎにゆき昼近くに家に帰ると、父母や近くの大人がわが家の大広間のラジオの前に座っていた。天皇の終戦宣言、私は訳も解らず聞いた。大人らは泣き伏していた。出兵していた長兄は秋頃に帰って来たのだろうか。元は教師だったが憲兵となり、その時長岡小学校を訪れ、腰に刀を下げ軍服姿の長兄中心に全生徒で撮った写真を見た事があり、歳の離れていた長兄を実感した。いつも父母が演習で富山に来たと知ると面会に行き、満州へ渡る時も姉、次兄を連れて舞鶴へ面会に。私はいつも祖母と留守。祖母っ子に育った。長兄は帰還後サラリーマンとなり、家業の農業は一番末の弟が高卒後継いだ。ほとんど人頼みで田畑を守って来た。長兄は家族を守る為、戦後一生懸命勤務した。戦争時の事など、私どもに語ることはなかった。波瀾万丈の長兄は惜しまれつつ六十過ぎ脳疾患で黄泉へ旅立った。
短歌
・わが幼く この目に見たり街空に ワラワラと落ち火噴く焼夷弾
・茶畑に 身を伏せひたに朝待ちし 恐怖の記憶今も口渇く
・大花火 打ち開くこの空の涯て空襲の 赤き夜は色褪せず