富山大空襲体験文

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村杉道子 氏(富山市)

「空襲時の体験」

 私は昭和6年5月26日に、魚津で産声をあげて、その間、なにげなく生きて来た人生92年。その92年の人生、6才になるまで父母に育てられ、小学校6年父が警察官魚津地区の駐在所まわりをして私は女学校に4年、その1年2年の時は、戦争中で勉強もろくにしないで防空壕掘ったり、学徒動員、民家にいって、田植の手伝したり、又はミルクの袋づめを手伝ったりしているときにサイレンがなりひびき、空襲警報発令。防空ずきんをかぶり防空壕に入り、こんなことばかりしていて昭和20年8月1日月夜の晩にアメリカのB29がピカピカ光を出しながら、大きな音を出しながら富山に空襲警報発令とラジオから知らせをきき、とうとう富山にやってくる。私の家は古里村下邑。今は婦中町下邑。B29は私の家の真上を通って行くのを毛布をかむって、こわくて目もあけておれず片目をつむって数はかぞえていないがむれを作って富山市に入ったと思ったらたちまちに夜空は、火の海に。ばくだんをおとし、その音が家のガラス戸がわれるようなひびき、こわくてこわくて家の中には入れず外に出て空をみているしかありませんでした。
 なんて戦争とは、こわいもの、平和であってほしい富山市はたちまち真赤にそまって火の海につつまれ一夜をすごしました。私は学生であって若さもあって8月2日の朝早く家を出て速星の駅から歩きその足で汽車の線路伝いに歩いて無我夢中で赤江町にある学校をめがけて、先ずは西富山まで来て五福、大学前を歩いてくるともうそこは昨日のばくだんで富山市は、何一つのこっていませんでした。
 もう一面に焼野原、くすぶったけむりが上っていて、そんな中に動物(馬)や人々が焼き死の人、又は生きのこった方々顔も黒くなって、さけんでることば、それは、お腹がすいて、おにぎりたべたい、たべるものがほしいとか、私はそんな方たちの前を通りすごしながら、何もしてあげられず本当に、思い出すと今でも頭のすみにのこっています。火の海は丘にいるとあつくてみんな川の中にて、つかっておいでる方も数多くみうけられました。私は学校までどうなっているのか心配でみに行きました。すると本当にみわたす限り何一つなく焼野原。私はその時たくさんの生徒がいるのにどうして私が一人、ぼうぜんとして立っているのか何が何だかわからなくなりました。さすが残っていたのが、県庁、電気ビル、大和がのこっていました。私は実際には、富山の空襲にはあっていませんが、アメリカのB29、そしてばくだんをおとし、たちまち富山市は火の海真赤にそまった火の海、こわいちゅうもんじゃありませんでした。


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